白梅
第3話
夜が訪れると、庭の白梅は闇に輪郭を失い、まるで影そのものが花となったように見えた。
千寿は、部屋の障子を少し開けたまま、ひとり外を眺めていた。
今日の昼間の出来事が、繰り返し胸の奥をくすぐっている。
あのとき見た男の目――
(どうして、あんな目をしていたのだろう)
哀しみにも似て、けれどそれだけではない、言葉にできない色を湛えていた。
遠くを見ているようで、どこにも焦点を合わせていない。凍てついた水面のような瞳。
ほんの一瞬見つめ返しただけなのに、そのまなざしは今も、心の奥に影を落としていた。
「気になるのね」
その声に、千寿はわずかに肩をすくめた。
振り返ると、そこに北条政子が立っていた。
常のように静かに、けれど鋭さをたたえた目で、千寿をそっと見ていた。
「……いいえ。別に」
口に出した声は、ほんの少し遅れていた。
政子はふっと笑い、千寿の傍らに膝をつく。
「嘘をつくときは、もう少し目を伏せるのよ」
やわらかく言いながら、政子は千寿の髪をひと房、指先でなぞった。
「重衡殿のこと……優しいと思ったでしょう?」
「……わかりません。ただ……思っていたのとは違って」
「違って?」
「もっと、恐ろしい人だと……」
政子はうなずくように目を伏せた。
「そうね。でも、怖いのは人の姿ではなく、その心よ」
その言葉は、氷のような冷たさではなく、芯に静かな重みを持っていた。
「千寿。あなたはまだ若い。人の顔を見て、情にほだされるのは簡単。でも――」
言葉を切ると、政子は障子の外の闇に目を向けた。
白梅は、もう黒い影の中に溶けて見えなかった。
「……あの人は、戦を知っている。命を奪い、国を燃やした者よ。
たとえ優しく見えても、背負ってきたものは消えない。それを、忘れてはならないわ」
千寿は黙って政子の横顔を見つめた。
夜灯に照らされたその表情は、やわらかさの奥に鋼のような強さを宿していた。
その強さの裏にある計り知れぬ哀しみも、千寿は知っていた。
「忘れません」
そう言いながらも、胸の奥に灯る、柔らかな何かは消えなかった。
ふんわりと、淡い光のように息づいていた。
あの人は、なぜ――あんなにも静かな声で謝ったのだろう。
なぜ――あんな目をしていたのだろう。
◇ ◇ ◇
重衡の受け入れは、静かに、しかし波紋を立てながら進められた。
政子の采配により、屋敷の一隅にある離れが、彼の仮住まいとなった。
武士たちは交代で見張りにつき、侍女たちには決して近づかぬよう厳しく申し渡された。
千寿を除いては。
「姫様、あのような方のお世話など、どうかご再考を……」
古参の侍女が、顔色を変えて進言したこともあった。
だが政子は、わずかに微笑んだだけで言った。
「千寿にしかできぬことなの」
それ以上、誰も言葉を重ねなかった。
政子の声には、誰にも逆らえぬ何かがある。
武士たちは、重衡に向ける目を緩めなかった。
背筋を張って遠巻きに立ち、常に柄に手をかけていた。
言葉を交わすことはなく、まるで彼が生きたままの影ででもあるかのように扱った。
けれど、重衡は何も言わなかった。
侮られても、遠巻きにされても、まるでそれが当然だとでもいうように、静かに佇んでいた。
命じられてここに来た者。
命じられて、命を奪い、命じられて、捕らえられた男。
だがその沈黙の奥にあるものが、千寿には、いよいよもって気にかかっていた。
言葉ではなく、視線でもなく――
ただ、空気の底で響く、どこか寂しげな気配。
(あの人は、何を見てきたのだろう)
それを知ってはいけないと、どこかで思いながらも。
千寿の心は、そっとその深みに、足を踏み入れようとしていた。