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冬の湖に、影を映して

第2話

 声の方を、すぐには見られなかった。


 名を呼ばれたというのに、応えられぬまま、千寿はただ、白梅の枝を見上げていた。

 寒さに肩をすくめるようにして咲かぬ蕾が、ほんのわずかに、朝の陽を受けて光っていた。


 「……はい。わたくしが」


 やっとの思いで返した声は、頼りなく震えていた。


 それでも、声にしたことで何かがほどけたような気がして、千寿はそっと息を吐いた。


 彼が、ゆるりと頭を垂れる気配がする。


 その動きすら、傷ついた羽を労わるように慎ましく、どこまでも静かだった。


 「このたびは、不始末の数々により……不本意ながら、こうして鎌倉に身を置くこととなりました」


 低く、深い声だった。


 武将にありがちな尊大さも、ひとを睨みつけるような威圧もない。

 ただ、自らの言葉の重さを一語ずつ確かめるように、ゆっくりと紡がれた声だった。


 千寿はそっと顔を上げ、彼の目を見た。


 目が合った。


 ほんの一瞬だったのに、その瞳の奥に広がっていたものは、冬の湖に似ていた。

 冷たい水の底に光を抱くような、透き通る静けさ。

 どこまでも澄んでいて、けれどその深みに、底が見えなかった。


 思わず、息が止まる。

 そのまま吸い込まれてしまいそうで、千寿は慌てて視線を逸らした。


 (この人が……あの平重衡?)


 戦火の中、東大寺を焼いたと人は言う。

 多くの命を奪い、祈りを灰に変えた張本人だと。

 それなのに――どうして。

 どうしてこの人の目は、こんなにも寂しいのだろう。


 背後から、小さく衣擦れの音がした。


 政子が立ち、少し離れた縁に侍女たちを伴って控えている。

 誰も声を出さず、ただ静かに成り行きを見守っていた。

 それがかえって、ひやりとした重さになって、千寿の背にのしかかる。


 「わたくしは……ただ、命じられただけにございます」


 それは、思わずこぼれた言葉だった。


 自分でもなぜ口にしたのかわからない。けれどそれは、心の底から湧き上がったものだった。

 命じられるままに、千寿は彼の世話役となり、命じられるままに、ここで迎えた。


 目の前の男もまた、命じられるままに戦い、命じられるままに敗れ、鎌倉へ送られた。


 重衡は、わずかに目を細めた。


 「……それでも、出会いはこうして、与えられたものかと存じます」


 それは慰めではなかった。


 恨みでも、嘆きでもなかった。


 ただ、あらゆることを受け入れてきた者の、ひとつの境地だった。

 その言葉を受けて、千寿の中に、名もない痛みが広がっていく。


 ふと、風が吹いた。

 それまで凪いでいた空気が、ひとすじだけ揺れ、白梅の枝が、かすかに震える。


 小さな蕾が、そっと鳴るように、わずかに揺れた。

 その静かな音を聞いたような気がして、千寿は唇を結んだ。


 重衡の目が、一瞬だけ、梅の枝に向いた。


 それはまるで、今の風に、自分の心が揺れたことを見透かされたようで――


 千寿は、もう一度だけ、彼を見つめ直した。


 心のどこかで、誰にも言えない問いが芽吹いていた。

 ――この人の目は、いったい何を見てきたのだろう。



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