番外編 風のささやき
第14話
庭の白椿が、ひっそりと咲いていた。
政子は縁に腰を下ろし、湯を口に運ぶ。その香りが、静かに春を知らせていた。
「咲いたのね、今年も」
声をかけると、背後から足音が近づいた。頼朝だった。
彼もまた、庭の花をしばし見つめていた。
「……あの子は、今、どうしている」
頼朝の問いに、政子は少しだけ笑みを浮かべた。
「元気よ。少しずつね。でも、あの子の歩みは、確かに前に進んでる」
頼朝が眉をひそめる。
「重衡を、そうまで慕っていたのか」
政子は、しばらく沈黙したのち、小さく息を吐いた。
「千寿はね、あの戦で、すべてを失ったの。家も、名も、親も兄も。焼け落ちる屋敷を、ただ見ていたあの子の目……今も忘れられない。光を拒むような瞳だった」
頼朝の手が膝の上でゆっくりと組まれた。
「……だから心を閉ざしたのか」
「ええ。誰にも寄りかからず、愛されることも望まず、ただ静かに暮らしていた。でも、重衡だけが、その凍った心にそっと手を伸ばしたのよ」
風が通り、白椿がひとつ、地面に落ちる。
「彼は、敵だった。でも、彼はあの子に“生きていい”って言った。存在を望んでくれた。……それが、どれほど千寿にとって救いだったか」
政子は庭の方を見つめたまま、ぽつりと続ける。
「重衡を失って、あの子はまたすべてをなくした。生きることに意味なんてないと、そう思っていた。でも今は違う。彼の愛が、あの子の中で息づいてるの。……あれは、命を繋いだ愛だったのよ」
頼朝が静かに言った。
「お前は、あの娘を導いたのだな」
「いいえ、背中を押しただけよ。重衡の声が、あの子を今も支えてる。……“千寿、生きていてくれ”って、あの男は最後まで願っていた。わたしは、その願いに手を添えただけ」
庭のほうから、笑い声が聞こえる。
障子の向こうでは、千寿が子どもたちと布を縫いながら、村の娘に言葉をかけていた。
政子は微笑む。
「生きる意味をもらった人は、今度はそれを、誰かに手渡せるの。あの子はそれを始めたわ。少しずつでも、自分の手で」
頼朝は何も言わなかったが、その眼差しはどこか穏やかだった。
「……あの娘は、強くなったな」
「ええ。でも、優しさを失わなかった。それは、あの人が遺してくれたもの」
政子の言葉に、風が寄り添うように吹きぬけた。




