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風の中に、あなたを想う

第12話

 重衡が去りし後の館は、まるで時が止まったようだった。


 あの朝を境に、すべての音が遠のいた。

 庭の木々は静かに佇み、鳥のさえずりさえも、どこか遠慮がちに響いていた。


 千寿は、まだ残るぬくもりを求め、縁側に膝をついた。

 震える指先で、彼が最後に腰を下ろしたあたりをなぞる。

 けれどそこには、何もなかった。掌は空虚で冷たく、あの温もりを留めることはできなかった。


 「どうして……どうして、こんなにも愛しいのに、こんなにも遠くへ……」


 胸が焼けつくように痛み、言葉にできぬ叫びが喉をついて出た。

 涙は頬を伝い、何度拭っても止まらなかった。

 嗚咽が静まり返った館の中に響くたび、彼女はひとりきりであることを思い知らされる。

 けれど――その深い闇の底に、重衡が遺した言葉が、ほのかに光を灯していた。


 『あなたの未来が、光で満ちていますように』


 それは彼の最期の願いだった。


 千寿の未来を案じ、愛し、祈った言葉だった。

 彼女は顔を覆い、手の甲で濡れた頬をぬぐった。


 「重衡さま……あなたの愛は、わたしのすべてでした。だから……この痛みさえも、わたしにとっては、あなたの証」


 そのときだった。廊下の向こうから、控えめな足音が近づいてきた。

 ふと顔を上げた千寿の目に映ったのは、静かな気配を纏う北条政子だった。


 「……ここにいらしたのですね」


 政子はゆっくりと千寿の隣に座った。沈黙の中、しばらく庭の木々を眺めていたが、やがて口を開いた。


 「春が来るというのに、今年はやけに寒い。……けれど、寒さも、痛みも、必ずやわらぎます。時間というものは、酷いようでいて、やさしいのです」


 千寿は、わずかに顔を伏せた。


 「わたしには……まだ、わかりません。朝が来るたび、あの人がいないことが、刺すように痛いのです」


 政子は小さくうなずき、言葉を選ぶように口を開いた。


 「私も若い頃、似たような痛みを抱きました。夫が遠ざかり、戦に明け暮れ、命を危うくするたびに――残される者は、何を支えにすべきかと問い続けました」


 千寿は顔を上げ、政子の横顔を見つめた。


 その瞳は、かつて涙を流しながら、何度も決意してきた者の強さを秘めていた。


 「あなたは、重衡殿の最後を見届けた。あの人の愛を受け取った。それは、何ものにも代えがたい宝です。……けれど、それを抱いて生きることは、容易ではない」


 千寿は、胸に手を当てた。そこには、確かに彼の言葉が刻まれている気がした。


 「この痛みも、生きている証でしょうか」


 政子は静かにうなずいた。


 「ええ。痛みは、愛の裏返しです。そして愛は、いなくなった者をつなぐ絆になる。……あなたは、いまのそのままでいい。急がず、でも止まらず、生きなさい。光を見つけに行くのです」


 千寿の頬に、風がそっと触れた。

 その風の感触が、なぜか重衡の指先のように思えた。


 「……また、いつか……あなたに会えますように」


 祈るように呟いたその声は、風に乗って空へと昇っていった。


 千寿は立ち上がった。まだ頼りなく、足元もおぼつかない。

 それでも――庭に差し込む朝の光が、かすかに彼女の背を押していた。


 「重衡さま。あなたが生きていた証を、わたしは忘れません。あなたの記憶と共に、生きていきます」


 その声には、まだ痛みがあった。

 けれどその奥には、確かな決意が宿っていた。


 政子は静かに頷き、千寿の肩に手を添えた。


 「人は、誰かの愛を灯して生きていくものです。あなたがその灯を絶やさなければ……いつか、それがまた誰かの道を照らします」


 重衡のいない世界。


 けれど彼の想いを胸に抱いて、千寿は今日を生きる。


 新たな朝の光の中へ、静かに歩を進めながら――。



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