春の名残に、あなたを想う
第11話
まだ夜の帳が空に残るころ、重衡は静かに歩き出していた。
歩を進めるごとに、胸が張り裂けそうになる。
ひとつひとつの足音が、まるでこの世との別れを刻むように、冷えた大地に響いた。
「千寿……」
その名を呼んだ唇は、声にならぬ震えで揺れた。
喉の奥に熱いものが込み上げ、言葉が溶けていく。
遠く離れた場所にいるはずの千寿の姿が、目の裏に浮かぶ。
彼女の手、髪、微笑み――それらが鮮やかに胸を刺した。
「愛しい人を置いていくとは、こうも苦しいものか……」
風が頬を撫で、冷たさが涙と汗をまぜこぜにしていく。
それでも重衡の背はまっすぐだった。
男として、武士として、そして何より――千寿の愛を受けた者として。
最後の朝を、穏やかに、静かに歩む覚悟を抱いていた。
「どうか……お前が幸せでありますように」
それは祈りであり、許しを乞う言葉でもあった。
守りきれなかった悔いが、胸をかきむしる。
けれど、彼の瞳には確かなものが宿っていた。
たとえ命が尽きようとも、心は千寿と共に在るのだと。
一方――
同じ時刻。
京の一隅にある、ふたりが最後に共に過ごした屋敷の縁側。
千寿はひとり、まだ暗い空を見上げていた。
夜明け前の空は、群青から淡い茜にゆっくりと染まり始めていた。
彼女は重衡の名を呼ばなかった。
呼べば、胸が張り裂けてしまいそうだった。
ただ、手のひらを重ね合わせ、彼の無事な旅立ちを祈っていた。
「……行ってしまうのですね」
声に出した瞬間、全身が震えた。
もう戻らぬ人だと、何度も言い聞かせてきた。
それでも心のどこかで、重衡がふと笑って戻ってくるような錯覚を捨てられなかった。
庭の梅が、寒さに耐えながらも一輪だけ、ほころんでいた。
春の訪れは近い。
けれど、その春を重衡は見ることができない。
千寿はそっと庭に降り立った。
草の露が足の裏を濡らし、冷たさが現実をつきつけてくる。
けれど彼女は顔を上げ、朝焼けを見つめた。
「わたしは……生きてゆきます。あなたの願いを胸に。
あなたの愛に恥じぬよう、凛として」
その言葉は、どこかへ飛んでいく風に乗って、遥か遠くの重衡に届いてほしいと願った。
空にはすでに、一筋の陽光が射し始めていた。
重衡がこの世を旅立つその刻、千寿は背を向けるのではなく、前を向いて歩き出していた。
彼のいない世界でも、生きていく――その痛みと共に。
涙は止まらなかった。
けれどその涙は、弱さではなく、深い愛の証だった。




