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朝に降るもの

第10話

 まだ夜の名残が空にわずかに残り、東の空が淡く茜に染まり始めていた。

 庭の草木には、ひとしずくずつ夜露が宿り、朝の光を受けて小さく輝いている。

 静けさは、ただ静けさとしてそこにあり、何も告げず、何も急かさなかった。


 重衡はゆっくりと縁側へ歩み寄り、座布団に身を落ち着けた。

 その目は、うたた寝から覚めかけている千寿の顔に向けられていた。

 柔らかな寝息、まだ夢の中にいるようなまぶたの動き、伸ばされた指先――

 それらを、名残惜しむように、深く、深く見つめていた。


「……千寿」


 その声で、千寿は目を開けた。

 まだ朝の気配に溶けきれていないまなざしで、重衡の目を見つめ返す。


「これが、わたしたちの……最後の朝だ」


 その言葉は静かだった。


 悲鳴のような感情は抑え込まれ、代わりに滲むのは、ひそやかな恐れ――

 死を知る者だけが抱く、あの底のない静寂への不安。

 千寿は、細くふるえる指で彼の手を探し、そっと包んだ。

 そのぬくもりは、確かにここにある命だった。


「どんな時も……あなたと共に」


 囁くようなその声は、誓いではなかった。


 ただ、別れゆく者に残された、最後の祈り。


 重衡は目を閉じ、千寿の手を強く握り返す。


 だがその強さは、どこか必死だった。

 どれだけ平静を装っても、彼の奥底に潜む「恐れ」は、隠しきれない。


「……わたしは、恐れている」


 ぽつりとこぼれたその声に、千寿の指が震えた。


 「潔くありたいと思っても、やはり怖い。

 死そのものより、お前を残してゆくことが、何より……」


 千寿は泣きそうになるのをこらえて、彼の手をぎゅっと握った。

 顔を伏せれば、涙が落ちる。

 でも、顔を上げれば、彼の最後の朝に痛みを刻んでしまう――

 その板ばさみに、心がひりついた。


「どうか……どうか、忘れないで。

 わたしは、いつまでも……あなたのことを想っています」


 その言葉に込めた想いは、胸の奥を引き裂くほどだった。

 重衡は、淡く差し始めた朝日を見つめたまま、言った。


「この光を、きっとお前もまた、明日見るだろう。

 ――わたしはいないが、それでも。

 その朝の中に、わたしの面影がひとひらでも残っていたら……それでいい」


 その声は、静かに震えていた。


 死を受け入れた男の声ではなく、死に向かいながらもなお、生きたいと願う者の、正直な声だった。

 千寿はこらえきれず、重衡の胸に顔を埋めた。

 その胸の鼓動が、まだそこにあることに、ただ涙がこぼれた。


「わたしは……わたしは、あなたがいない世界を生きたくない……けれど、あなたが望むなら……」


 唇が震え、声はかすれていく。


「わたしは、生きて……あなたの分まで、春を見つづけます」


 重衡はそっと、彼女の髪に手を添えた。

 それは抱擁ではなく、別れの手だった。


「ありがとう。……お前が生きてくれるなら、わたしは、死ねる」


 そうしてふたりは、朝の光の中でしばらく、言葉を失って寄り添っていた。


 風がそっと庭を撫で、花の香が淡く流れる。


 やがて千寿は顔を上げ、濡れた目で微笑んだ。

 笑顔は歪み、かすかに震えていたが、それでも彼に向けるものだった。


「あなたの愛を、胸に……わたしは生きていきます」


 その朝は、別れの痛みと希望がないまぜになった、永遠の記憶となった。


 そしてそれは、彼女が生きるために背負う、やさしくも残酷な約束だった。




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