白き朝に咲く
第1話
それは、風ひとつ吹かぬ朝だった。
冬の陽はやわらかく、山の端にかすかに光を落とし、鎌倉の空は、薄く透けた水のように静かに澄んでいた。
鳥の声さえ遠く、ひととき、世界が息をひそめているように思えた。
千寿は、庭先の白梅の下で立ち止まり、そっと袖を指に巻きつけていた。
淡い香りが、風もない空気のなかに、ひっそりと漂っている。
――今日、あのひとが来る。
そう聞かされたのは、昨日の暮れ方のことだった。
「平重衡が、鎌倉に到着いたします」
政子の言葉は静かで、何気ない報せのようでもあったが、その奥にある重さを、千寿は敏く感じ取っていた。
平家の将。
南都を焼き、多くの命と、祈りを奪ったと伝わる人。
その男が、鎌倉で囚われの身となり、そして……ここで暮らすことになったという。
――なぜ、私が。
そう思わなかったわけではなかった。
だが、政子は言ったのだ。
「あなたにしかできぬことがあると思うの」
千寿は返事をしなかった。ただ、膝の上でそっと手を重ね、うなずいた。
政子の目はまっすぐで、厳しさと、どこか哀しみのようなものを湛えていた。
身寄りのない自分を、政子は引き取り、育ててくれた。
名ばかりの縁者としてではなく、ひとりの人として、傍に置いてくれた。
その恩に報いる機会が、いま、与えられたのだと千寿は思った。
けれども、それ以上に――
その人の名を聞いたとき、心の奥のどこかが、静かにざわめいたのも確かだった。
ひどく冷たい水に、指先だけをそっと沈めたような感覚。
目に見えぬ水面が、胸の内に波紋のように広がっていく。
まだ自分でも知らないなにかが、そっと目を覚ましたような……
――そんな気がしてならなかった。
やがて、雪のような白い日差しの中を、ゆっくりと人影が現れた。
肩に風をまとうことさえ控えるような、慎ましやかな足取りで、近づいてくる。
その人は、思っていたよりも若く、そして、思っていたよりも……ずっと静かだった。
「……千寿殿であらせられますか」
その声は、擦れた音のなかに、水面の波紋を撫でるようなやさしさを宿していた。
千寿は目を伏せたまま、深く息を吸いこんだ。
――この人が、かの重衡。
冬の光に照らされるその横顔は、罪を重ねた武将のものというよりも、何かをすべて失い、遠い岸辺に流れ着いた漂流者のように見えた。
心が、浅く震えた。




