9 牙狼の大叔父
夕暮れになると、リーリー、ガチャガチャと秋の虫がうるさくなってきた。仁も秋の虫というのは知っていたが、こんなに近くで鳴かれるとは思っていなかった。たぶんアパートの庭にいるのだろう。率直に言ってやかましい。
「こんばんは! 猪俣さんから柿もらったよ。こないだのお礼だって」
「はい、こんばんは」
牙狼に言われて、仁は「誰だろう……」と記憶をたどる。思いだした。このあいだ、牙狼がゴミ捨て場を荒らしたんじゃないかと疑ってきた人だ。たぶん、おわびのつもりでもあるのだろう。しばったビニール袋に入った三、四個の柿を受け取る。ひとつの大きさは片手からこぼれるほどだ。つやがあるオレンジ色でおいしそう。
「これは渋柿だけど、渋が抜けたらおいしく食べられるよ!」
ここらの住宅地には庭つきの家も多く、その庭には柿が植えてある。牙狼が言うには、この柿は時期が早い柿だという。これからしばらくすると、あちこちで柿もぎの風景が見られるのだと。鳥のために全部はとらないのだが、木に残った柿を狙ってクマも出るから、そのままにはしておけないんだと笑った。
渋柿なので、袋には渋抜きのアルコールを入れているそうだ。このまま暗いところで二週間待てば、渋が抜けてとろけるように甘くなるんだって。甘柿より渋を抜いた渋柿のほうが甘くなるっていうから不思議だ。
「そういえばジンさん、こないだ、お面ありがとね」
「ん? あ、ああ、あれ?」
ゴミを荒らしていたハルピュイアを追いこむのに、仁の作ったお面を使った。傷や汚れがつくかもしれないと牙狼は心配していたが。
「いや、いいんだ。役に立ったなら」
「ジンさんはいろいろお面作ってるんだよね、すごいねー」
たしかに、お面を作るのが趣味だと言った。あれこれと本を見たり、動画を見たりして自分で作っていた。けれども、今の仁は手が動かずにいた。道具や材料の多くを実家に置いてきてしまったのもあるが、SNSでちょっとバズったのが怖くなってから、どうやっても作る気持ちになれずにいた。
「それは……」
怖くなった。作ったものが人の目に触れることが。無遠慮な視線にさらされ、厳しい批判を受けることが。それなら見せたくない。作りたくない。作らないほうがいいと思いたい。最初からなかったことにしたい。
「もう作ってないんだ」
「どうして?」
悪気なく牙狼は首をかしげる。その仕草がみょうに憎たらしくて。仁はぐっと歯を噛みしめた。どうしてわかってくれないんだという気持ちと、簡単にわかってほしくないという気持ちがせめぎあう。
「ジンさんは作りたいんじゃないの?」
「こんなの……たいしたものじゃないし。人に見せられるものじゃないし」
「そっかあ。ジンさん、真面目だからダメだなあと思っちゃうんだね」
俺は牙狼が言うほど真面目じゃない。ずっと受け身でいたい、面倒くさがりなだけだ。言われたことだけやっていたいし、都合が悪くなると逃げてきた。ちょっとケチがつくと全部ダメなように思えて投げ出してしまう。そんな人間だ。
「うーん? でも、ジンさんは作るの好きなんでしょ? 作ったらいいのに」
その言葉が、なぜかカチンときた。
「もういい。やめたんだ」
「なんで?」
涙が出てくる。みんなの前で失敗するのが怖い、怒られるのが怖い。バカにされるのが怖い。それを言い訳にやらない自分を見破られるのが怖い。
自分の作ったものを人に見せたくないわけじゃない。たくさん見てほしい。すごいと言ってほしい。でも、なにを言われるかわからないのが怖い。見せたいけれど、稚拙だと、こんなものくだらないと笑われるのが怖いのだ。
「うるさいなあ!」
「……ごめん」
「どうしよう……」
壁に飾られたお面を、今は見たくなかった。見ないふりをして、窓から真っ暗な外を眺めていた。
落ち着いてみると、さすがにあの態度はなかったなあと思った。どなられてしょぼくれた牙狼は耳をたおした犬のようだった。それを思いだすと、なんだか悪いことをした気になって、いたたまれなくなる。俺はお面を作るのが好きなんだろうか。好きって言っていいんだろうか。ぼんやりとそんなことを考える。
痛いところをつかれて、つい感情的になってしまった。だからといって、いまさらこちらからなにか言うのも気まずいし……と思ったのだが、やっぱりモヤモヤが残ってしまう。このまま明日になったら、なんだかこじれてなにも言えなくなってしまうんじゃないか。仁は立ちあがってジャ―ジをはおると、牙狼の部屋にむかった。
「こんばんは、ガル夫さん」
おかしいな、出てこない。いると思ったんだけど。もう一度チャイムを押そうとしたとき、後ろから声がかかった。
「おや、どうした? 牙狼に用かな?」
「え? ……ひへぎゃ⁉」
思わず変な声をあげてしまった。
背後から声をかけられ振りむくと、ガタイのいい男がいた。仁はとって食われると思った。帽子の下からのぞく目が怖ければ、かぱっと開いた口も怖い。ダブルのスーツがよけいにいかめしさを感じる。どこからどう見ても立派な「怖い人」だ。けれども男は帽子をとって、にこやかに笑ってみせた。謎の圧力と恐怖を感じる。
「はは、驚くか。それもいい。世界は驚きに満ちている」
驚くというか……。低くしゃがれた声はなお怖い。それを意にかいさず、男は礼儀正しく帽子をとって話しはじめた。
「牙狼のことは放っておけばいい。今日は新月だ」
「え、あれ、そうなんですか?」
ここに来た日が満月だったのは覚えている。牙狼が夜中じゅう校庭で暴れた日だから。すると、あれからもう半月がたったことになる。いろんなことがたくさんありすぎて、あっという間に思えた。
「我々は月の動きは常に気にしているものだ。新月に狼になるものもいるからな」
男は地に響くような声でそう言った。牙狼と同族……人狼なのだろう。牙狼の知りあいみたいだが……。
「満月の牙狼を見たことはあるか? その反動で、牙狼は新月になるとやけに落ちこむ。だから放っといてやれ、明日には元に戻るだろう」
反動……満月の夜のハイテンションっぷりを考えると、牙狼は今すごく落ちこんでるんじゃないだろうか。放っといていいんだろうか。いやでも、俺が声をかけるとして、どうにかなるもんなんだろうか。
「声をかけないほうがいいこともある。……君はここの新しい管理人だね?」
「あ、そ、そうです、安和井仁です。安和井優子の甥で……」
「ほう。そうかそうか」
男の金の目が三日月のように細められた。鼻がピクと動き、視線がじっと仁に注がれる。
「あれは死んだと聞いた」
「……そう、です。お知りあいですか?」
「ああ、己は銀朧と名のるものだ。そこの牙狼の大叔父だな」
そうか、雪子と由羅が言っていた牙狼の大叔父がこのひとか。この前、仕事調査票を出したのと窓が直ったのを、父に電話したんだった。そのとき、「もし牙狼の大叔父に会ったら、優子の骨を渡してほしい」と言われていた。
「あの、銀朧さんに、伯母のお骨を渡したいのですが……」
仁は銀朧を自分の部屋に入れた。あがった銀朧は丁寧にコートを脱ぎ、壁に飾られたお面を見つめている。彼はふむふむとわかったかのようにうなずいた。
「そうか、君は奇妙奇怪なことに形を与えられるのだな。それはよい手だ」
そういえば、以前、牙狼にお面を「すごい」と言われたんだった。それが嬉しかったはずなのに。嬉しいはずなのに怖くなってしまう。
俺は牙狼が思ってるような人間じゃない。お面だってあんなのたいしたものじゃない。他の人ならもっとうまくできるだろう。
仁は本棚の上から小さな骨壷をとり、銀朧の前のテーブルにそっと置いた。かたんと軽い音がなった。
「どうぞ。こっちがお骨、喉仏で……他のはお墓に入れたんですが」
「ふむ」
喉仏とはいうが、第二頸椎のことであるらしい。銀朧は骨壷をひょいと手にし、くんくんと鼻をつっこんで匂いをかいでいる。すこしお線香というか、白檀の香りが染みついているような気がした。
「あの……優子伯母さんのお知りあいなんですよね」
「そうだな。すこし前に、牙狼のために住む場所を作ってくれと言った」
すこし前……彼にとって「すこし」とは、どのくらい前なのか。父によると、このアパートを建てたのは三十年くらい前のことだという。伯母はずっとひとりで暮らしていたのだと言っていた。父も銀朧に会ったことはないそうだ。
「あれの兄がまあ、暴れるやつでな。よくほえて父親と噛みつきあいをしていたものだ。あいつはそれが嫌だったのだろう、ずっとこそこそ隠れていたわけだ。それを己が見つけて拾い、優子に預けた」
そんな捨て犬を拾ったみたいなと言うべきか、勝手に伯母に押しつけてと言うべきか。なんだかむしょうに憤りを感じる。
「伯母とは……どういうご関係だったんですか」
「どうとは。ふむ。人間の言葉では、夫婦というのが近いか?」
ぼんやりと想像はしていたけれど、一瞬、言葉に詰まる。
「でも……でも、ずっと離れていたんですよね」
「己は旅に出ていたからな」
伯母はこの人狼に忘れられていたんじゃないか。牙狼を預けるのに、都合よく使われていたんじゃないか。ここに住んでずっと待っていたのに、ひとりで亡くなったんじゃないか。そう思えば、なにか言ってやらなければならない気がした。
「短命な個体のことなど覚えていてもしかたがない」
そんな言いかたはないじゃないか。そう仁が口にしようとしたところで、銀朧の手が動いた。
銀朧は骨壷を開け、手のなかで骨を転がした。ぎゅっと握ったかと思うと、そのまま口に放りこんだ。ガリガリと噛みくだいて飲みこむ。まるでおせんべいかアメ玉を食べたかのように。あっけにとられた仁に、銀朧は舌なめずりをした。
「ふむ。己は食べた肉のことをいちいち覚えてはいない」
銀朧は大きな口を弧にしてみせた。
「だがそれでも、ああ、ちゃんと己の生の一部となっているさ」
仁は、それ以上なにも言えなかった。
「君は牙狼とは話すのか?」
銀朧はちゃしちゃしと舌を鳴らして聞いてくる。さっき鼻をつっこんで匂いをかいでいたところといい、牙狼と似ているなあと思った。人狼全体がそうであるのか、この銀朧と牙狼が特に似ているのかはわからなかったが。
「え、ええ、まあ……」
「あれはときどきよけいなことを言うから、人を怒らせる」
銀朧はそう言って、仁の知らない牙狼のことを話した。七十六年のうち、たった半月、それも一面しか仁は牙狼のことを知らない。そんな当たり前のことを思った。
「不安になりやすく寂しがりなやつだ」
「そう……ですか……」
いつも明るく元気で表情豊か、人懐こい印象だったが、それだけではないのか。そうだ、俺だって、牙狼の知る俺だけではない。なにが本当の牙狼なのだろう。どれが本当の俺なのだろう。
「あれは人と関わっていたいのだ。まったく自分に関係のないことであれば『そのままでいい』からな。よくも悪くも無責任になる」
「……そう、ですね」
そうか。どうでもいいと思っていれば、なにも言わない。なにか働きかけてくるのは、興味があるからだ。人づきあいをしたいからだ。
「あれが口を出すのは、おまえと仲良くしたいと思っているのだな」
「……そんな」
「それはよけいなことだろうが」
「そんなこと」
仁は座ったままうつむいて、キュッと手を握って答える。牙狼が寂しがってるなんて、考えたこともなかった。
「ない……と思います」
牙狼に言われて嫌だったのは、自分がずっと気にしていることだったからだと気づいた。自分が本当にお面を作ることが好きなのか自信がなかった。そんな簡単に好きだなんて言えないと思った。言ってはいけないと思っていた。
「それは、それが嫌だったのは俺の気持ちの問題もあって。だから……」
「ふむ? 君は自分自身に怒っているのか」
いつだって正解を求めすぎてしまう。そして簡単にできないと分かると途中で投げ捨ててきた。それでもなにかを好きと言っていいんだろうか。ダメな自分を見せたくないと隠してきた。「見た目は怖いけれど、実は真面目でいい人」のふりをした。
「牙狼がお調子者なのも彼の本当の姿だ。もちろん寂しがり屋なところもな。そこまでして人と関わりたいのは牙狼にとって本当のことだ」
銀朧が静かに言った。
「ものごとは流動しつつ、安定を好む。だから人間はなにかおかしなことがあっても『これが正常だ』と思いこむ。だから、たまには自分から現状を外れてみるといい。別のところにも重心が見つかるかもしれない。それはきっと、驚きだろう」
「さて、己は行くよ」
「え、牙狼さんには会っていかないんですか?」
銀朧がすっと立ちあがり、脇に置いてあったコートと帽子を手にした。大きな口が、優しく笑みをつくる。恐ろしげな顔なのに、不思議とそう見えた。
「会ったとして、わざわざなにか話すことがあるか?」
「そういうものですか?」
銀朧は困ったように軽く鼻で笑った。
「そうだな、これをやろう。土産というやつだ」
そう言って出してきたのは青いガラスでできた、ひとつ目の飾りだった。紐がついていてキーホルダーになる。どこかの国にある災いよけのお守りだ。ひょいと投げてよこすので、仁は慌てて受け取って礼を言った。
「あ、ありがとうございます」
「では。己はまた旅に出るよ」
そう言って銀朧は、月のない夜の闇へと消えていった。
翌朝、仁が一〇二号室に行くと、しゅんとしょげてしまった牙狼が現れた。嫌いなお風呂に入れられたあとの犬みたいな顔をしている。そのくらい、しょんぼりしているのがわかった。仁は怒っていないことが伝わるように、できるだけ深刻じゃない声で呼んだ。
「ガル夫さん」
「うん、ジンさん、ごめんね。悪いこと言っちゃった」
それはたしかに言われて嫌なことだったけれど。どちらかというと、過剰に反応してしまった自分の余裕のなさであって。
「いや、その……」
「なにをするかしないかはジンさんの勝手なのにね」
「それはそう……だけど。うん、俺が勝手に悪くとったのもあるから。ごめん」
そう言うと、牙狼は大きく瞬いた。
「そうなの?」
「そう。雪子さんが言ってた、中身を見られそうになったみたいな、そんなふうに思っちゃって」
やってもうまくいかない。正解を選べない。怖いからやらない。ちょっとした失敗で全部台無しになったような気持ちになってやめてしまう。そのうちに、気づいたときにはどうしようもなくなっていた。
そのダメな自分をつかれて、それを認めたくなくて牙狼に怒ってしまったのだ。
「だから、大げさに怒っちゃったんです。ごめんね」
牙狼は「そうかあー」とうなずいた。仁は牙狼と普通に話したくて、銀朧の話を持ち出した。
「あと、昨夜、銀朧さんが来てました。すぐに帰っちゃったけど……」
「そうかあ、大叔父さん来てたんだねえ!」
にこにことして牙狼は喜んだ。会えなくてもよかったのだろうか。心配したりしないんだろうか。新月の翌日には元に戻ると銀朧は言っていたが、どうやら思いっきり落ちこむけど回復するのは早そうだった。
「う、うん……」
「優子さんに会えた? それはよかったねえー」
「……そうだね」
仁にはわからないけれど、牙狼がそう言うのならそうなんだと思う。伯母はきっと、銀朧がああいうひとだというのもわかってこのアパートを建てたのだろう。そして牙狼と一緒にいた。それならいいと思う。
「オレは家族のなかでははぐれものだったからねえ。大叔父さんと優子さんが外で生活するのをいろいろ教えてくれたんだ」
あの大叔父も群れになじめず、ひとりで旅をしているのだという。人間のことはあまり好きではないが、人間社会というものに対する好奇心はあるらしい。だから、牙狼を優子伯母さんに預けて、人のそばで暮らしてみたらどうかと提案したのだ。
「そっか……」
「ねえ、ジンさん。ジンさんはお面を見せてくれたとき、嬉しそうだったし、とってもかっこよかったから。だから好きなんだなって思ったんだ」
好きか。好きっていうのは難しいと思っていたけど、好きでいいんだろうか。
「ジンさん、俺はジンさんのことわかんないけど、いい人だと思ってるよ」
「そう?」
「そう! あのね、ジンさんはダメなとこもあるかもしれないけど、いい人でいようとがんばってるの。だからいい人なんだよ!」
牙狼がそう言うんなら、そうでありたいと思った。牙狼とうまくつきあっていきたいのは、たぶん、本当の自分なのだから。
「満月のオレみたく、たまにはいい人やめてもいいけどね」
「それは……ちょっと……いや、そこまでは……」
「ん、それは?」
「ああ、銀朧さんがお土産だってくれた……え?」
牙狼に見せようと取り出した青いガラスの目玉が……動いた。ぎょろりとなにかを探すように動き、仁を見つけてぱちぱちと瞬きをした。なんだろう、電池は入ってなさそうだけど。
「大叔父さんのイタズラだねえ……」
「イタズラ⁉」
「オレたちのなかにはモノに自分の精気をこめられるのがいるんだよ。そう悪いものじゃなさそうだけど……」
ガラスの目は仁をじっと見ている。
「見られてる……?」
「たぶん顔認証だろうねえ……」
目がにっこりと笑った。
「お守りの持ち主として登録されたみたいね」
「え、そういうシステムなの……?」