11 面
仁はドアを開けて、奥の広間に声をかけた。
「すみません。あの、こんばんは」
ここはあわい荘から歩いて五分、真命神社にある河原町町内会の集会所だ。真命神社境内は公園になっていて、そのすみに小さな建物があった。待っていた小檜山が奥で大きく手をあげた。十人ほどが座っている。ほとんどは六十代より上だろう。
「やあ、安和井さん。よく来てくれました」
誰かが仁の目にギョッとする前に、ひとりがほがらかに声をかけてきた。猪俣だった。知らない顔に気後れしていたが、見た顔がいて安心した。ハルピュイアの件で話したことがある。牙狼を問い詰めていたときは怖く感じたが、そんなに怖い人でもないと思いはじめている。
「はじめまして。ここにいんのは祭りの実行委員でね、おれは委員長の渡部です」
小檜山の横でにこにことして挨拶をしたのがお祭りの責任者らしい。渡部と名のったその人は、いかめしい顔を崩して話しかけてきた。ガタイがよく、気難しげに見えるが、話しかたは柔らかく親しげだ。
「そこの、ええと、あわい荘に来た管理人さんですよね?」
「あ、はじめまして。あわい荘の……安和井仁です」
「やあ、優子さんにはお世話になっててね」
「そう、ですか……」
ぺこりと頭をさげると、そこらへんに座るように言われたので控えめに座る。
それから今度の祭りの話がはじまった。年に一度の例祭である。あわい荘の裏にある立岩観音と並び、この河原町組の中心になっている神社仏閣だそうだ。この近くの人は初詣に来て、どんど焼き(この地方では別の呼び名がある)をするという。
「私は五十嵐です。この神社には宮司さんが常駐してなくてね。大きい神社と兼任だから、来てもらわないといけないんですよ」
隣に座った五十嵐が説明してくれたが、仁はよく分からず、うなずくだけだ。五十嵐はまだ三十代くらいで、このなかではだいぶ若い。
とにかくお祭りではまず神事があり、それから屋台が出て、町内の人の演目があって、くじ引きをやるらしい。神事は宮司さんが祈祷し、町内会の代表が狐の面をかぶっての舞を披露するのだという。
「そうだ、その舞で使うお面なんだがな」
渡部が弱ったように木箱を出してきた。両手で抱えられるくらいで、やや平たい。
「神社にしまっといたんだが、先月の台風で雨漏りしてたようで。さっき見たら、濡れて形が崩れてしまっててなあ……」
箱を開けるとなかにあったのは狐のお面だ。能面のような木製ではなく、張り子に色をつけたもので、民芸品に近い。その耳から額にかけてが濡れて溶けたようにゆがんでいた。狐の表情も墨が流れてしまって悲しげに見える。裏は茶色いから、きっと柿渋だろう。柿渋は水に強いが、それでも耐えられなかったようだ。
「あらあー」
小檜山がお面を持ちあげて声をもらした。もっと早く確認すればよかったとこぼす。
「作りなおすかあ……」
「前、作ったのいつだっけ?」
「昔、ぼくが舞を頼まれたときだから、十五、六年前じゃない?」
「誰だっけ、作ったの」
あちこちでそれぞれに声があがるなか、渡部が箱書きを見ると、そこには日付と名前がずらっと書かれていた。その最後の文字をとんとんと指で軽くたたいて言った。
「ああ、そうだ。安和井さんだ。優子さんだな」
優子伯母さんが……。伯母はなにを思ってお面を作ったのだろう。なんとなく親しみを感じて、お面を見てしまう。水に流れてしまっているのをのぞけば、狐の顔はイタズラっぽくひょうきんで、それでいて憎めないかわいらしさがあった。どこかこどもが笑っているようでもあり、神としての威厳を出そうとしているようでもある。
「できる人を探すか、どこかに頼むか……」
仁はお面を見ていて、あれは作れそうだと思った。シンプルなつくりで、顔も表情も複雑ではない。そう大変ではないだろうと感じた。でも、言い出せずにいる。俺なんかでいいんだろうか。だいじな神事に使うものだし……。この土地のことを知らない仁が言い出していいことなのかわからなかった。
小檜山を中心とした話しあいは続いている。やっぱり新しくお面を作りなおすという方向になったらしい。
「誰に頼む?」
「張り子の郷土玩具を作っている工房は」
「お面はやっとらんだろ」
「間にあうかどうか」
「頼むお金はどうする?」
仁はこくりとつばを飲みこむ。怖い。でも、自分から変えないと、なにも出来なくなる気がした。おずおずと手をあげて、発言する。
「あの、俺、できるかもしれません……」
みんなの視線が集まる。
「いや、俺、張り子のお面作ったことあって……作れるかなって」
ふむ? と首をかしげて猪俣が言う。
「ああ、こないだ東尾さんが持ってたお面か」
ハルピュイアのときのか。ガル夫さん、口が軽い! とは思ったが、言うなと口止めしていたわけでもないからしかたない。むしろ仁がお面をつくれることを知っている人がいたほうが話が進むだろう。
小さなどよめきに、猪俣は感心したように答える。
「へえ」
「そうなのか?」
「あれは、できがいいね。売り物かと思った」
近くにいたひとりが仁に聞いてくる。
「ほー、お面作ってるの?」
「ええと、趣味っていうか……その」
どう言ったらいいのか答えあぐねていると、小檜山がうなずく。
「できるひとに任せるのがいいと思いますよ。こういうのは」
「ふうむ」
「ほう」
「そうかあ……」
「どうする?」
渡部さんはむむむと腕組みをして考えていたが、やがて仁のほうを見て言った。
「そうか、あまり日もないが、安和井さんに作ってもらえるかな」
その横で五十嵐が渋い顔をした。遠慮がちだが、譲らない口調で口をはさむ。
「そういう、近くの人にタダでやってもらおうみたいなのは、よくないですよ。材料費のことだってありますし」
「ふむ……。まあ、それもそうか」
「じゃあ、係として委員会からいくらか出すのはどうだ」
あっという間に、仁のいないところで話が進んでいく。いくつかかけあいが飛んだあと、渡部が姿勢を正した。
「安和井さんをお面係に任命したいと思います。予算を作りますので、やってもらえれば嬉しいのですが」
え、そんな。仁は一瞬たじろいだ。俺はプロじゃないし……。ただ好きで作っているだけだった。誰かに習ったことも、そういう学校で学んだこともない。そう思ったのを見透かしたように、五十嵐さんが声をかけてくる。
「もらっといたほうがいい。こういうのはタダでやってたらきりがない」
小さな町内だし出せる額は大きくないが、労力を出してもらうのだから、すこしはお金を出さなくてはならないと。
「はあ。……いえ、がんばります」
「そうか、よかった。必要なものがあったら言ってくれよ」
人に頼まれて断りきれなかった……というわけではない。そんな言い訳は自分から潰してしまった。けれども、不思議なくらい後悔はしていなかった。お面を必要とされて、誰かのために作るということに喜びが湧いた。作れることが評価されるのも。
そういうわけで翌日、あわい荘一〇一号室。仁は張り子に必要なものを書き出していた。粘土と和紙、でんぷんのりと絵の具と筆……。あと柿渋はどうしようかな。ネットで買うのもありだ。都会にいたときは「田舎は通販が届かない」という噂にびびっていたものだが、この市は普通に届く。
「どうもー」
「ああ、五十嵐さん。こんにちは」
五十嵐はお面をかぶって舞う役だ。毎年持ち回りでやっていたのだが、できる人が減ってきてここ数年はずっと五十嵐さんがやっているらしい。安和井さんもどう? と言われて慌てて首を横に振った。
「こっちが材料費です。レシートくださいね。足りなかったら言ってもらえれば、なんとかします。柿渋が必要なら鶴巻さんが作ったのをくれるそうです」
ここらでは昔から柿渋を紙や布、木材に塗って補強してきたそうだ。染め物の型紙とかも。青柿を砕き発酵させて作るのだが、その過程で匂いが出るので今では自宅で作る人はほとんどいなくなってしまったのだという。わざわざ作るのは一貫張りをやっている人くらいだと。仁は鶴巻さんが誰かはわからなかったが、それなら頼めますかと答えた。
「ありがとうございます……」
「ははは、ここはつきあいが面倒くさいでしょう? 人が少ないから、全員がそれぞれ分担して地域を支えてるんです。それはとても面倒くさい。でも、都会だって見えないけど、どこかで『誰か』がやっていたことなんでしょうね」
五十嵐はそう言って笑った。
「そうそう、あの神社の由来を話してなかったと思いまして。お狐さまのお面を作るのに知っておいたほうがいいかなって」
「ああ、そうですね。神さまの舞があるんでしたっけ。なんの神社なんですか?」
「お面のとおり、あそこの神さまは狐の神さまです。いや、主祭神は違うのですが、狐が祀られています」
狐というと、穀霊神として有名な神社があるが、そことは関係ないのだという。
「昔、馬糞を踏んだり道に迷ったりすると、狐のいたずらだと言っていたんですよ」
もう数百年前の話ですがね。たしかに不思議なコトがあると、人は理屈や理由をつけたがる。不可解な悪いことがあるとバチがあたったんだとか。わからないコトをわからないままにできなかった。そしてそれは狐というモノのしわざだとされた。
「あるとき、娘が狐にとりつかれ、おもちを食べたいと言って用意させるんです。それで宮司さんが呼ばれましてね。宮司さんは祈祷に幣を振るふりをして、こしょこしょと鼻をくすぐった。すると狐はくしゃみをして尻尾を出してしまった。狐は正体を現しまして、こうなったからには自分が死ぬか、お前たちが死ぬかしかないと言うのです。しかし宮司はこの町を守るのであれば、祀ってやろうと言って約束をした」
へえ、正体を見破られた狐が神社に祀られているわけか。
「百五十年前に戦があったとき、敵も味方もこの集落と畑に火を放とうとしたのです。いざ、夜襲をかけようというとき、火が見えて、『ああ、相手が先に火をつけたのか』と双方とも帰っていったそうです。しかし実際には火はついていなかった。これを河原町の狐火といって、お狐さまが町を守ってくれたのだといわれています」
仁は律儀な狐だなあという感想を抱いた。正体を見破られたからといって逃げもせず、何百年も人間のために祀られている。不思議だ。いまだに人々がそれを信じているというのも。
「私は能を習っていまして」
「能……能楽ですか」
「そうです。ここでは昔から、ちょっとお金があると茶道か能を習うんですよ」
ああ、そういえばお城の近くに能楽堂があると牙狼が言っていたな。失礼な話だが、こんな小さな市に能楽堂があることに驚いた。あれは市民の要望によって建てられたものだという。茶も能も、昔のお殿さまが好んでいたのが広まったそうだ。
「昔はくだらないと思っていましたがね」
それでも習いはじめると、あっという間に引きこまれたのだという。
「能で演じられるのは、多くが人ではないモノです。能面のことを面というのですが、それと一体になることで、人の意識を異世界へと変えることができるんです。舞台の世界をがらっと変えてしまうんです。この狐のお面もそういう、人と神のあいだを取りもつものなのでしょう」
それから五十嵐はちょっと言いにくそうに聞いてきた。
「安和井さん。都会からこっちに来て、嫌ではないですか?」
「嫌、ですか……まあ、それは……」
たしかに電車もバスもない、日常品以外の買い物に行くところもなくて不便だ。でも、不便と嫌がつながるのか、よくわからない。
「都会から来た人にはやりにくいことも多いかもしれません。ここは田舎で、嫌になって出ていく人も多いんです。この街は狭い。そういう私も昔、東城に出たことがありましてね」
出た当初は「これが自由か」と思ったのだという。
「大都市はどんなはぐれものだって、より集まれるほど人が多い。誰かの言うことなど一瞬にして埋もれて消えていく」
あいまいな笑みを浮かべた五十嵐は、恥ずかしそうに言う。
「ここはそうではない。本当に窮屈だ。知りたくもないのに隣の家の家族構成も仕事もなにからなにまでわかってしまう。行くところといえばショッピングセンターだけ。ガソリンも高い。大きな図書館や美術館も遠い、コンサートは来ない。最新の商品も店もない、映画館もない。仕事の選択肢は少ないし、人間関係に地域の行事だって面倒だ」
こっちに来て一ヶ月もたたない仁にはわからないこともあるのだろう。
「それでもね、病気して帰ってきて、ここはそう悪いもんでもないと思ったんです」
五十嵐は困ったようにうなずいた。
「東城で田舎から来た人のグチを聞くと、思ったよりここは田舎じゃないなって。それに、人の目なんて案外平気なものなんだ。どうこう言うやつがいても、無視してやっていける。今はネットがあるから仕事もあまり困らないしね。それなりに楽しく生きている。そうだね、能の先生が東城にいるのは大変かな」
「そんな……もの、ですか」
「結局、私は都会でも何者にもなれなくて、出ていった意味を探してよけいに田舎を嫌いになっただけだったのかもね」
都会にいたときのことを懐かしみつつ、五十嵐はあきれたように言った。
「都会に出たら全部解決するなんてことはなかったんです。笑っちゃう話だけど」
……ええと、俺、どういう顔をして聞けばいいんだろう。
「ごめんね、ぐだぐだ話しちゃって。これは私の話。私は、安和井さんが引き受けてくれてよかったと思いますよ。安和井さんが自分から祭りに協力しようとしてくれたのが、みんな嬉しかったんですよ。だから、安和井さんがこの土地でなにかやろうと言うのであれば、きっとうまく行くと思います」
五十嵐さんは力強くそう言い切って、最後にこうつけ加えた。
「人間はときに偽の表情を作りますが、面は本当の心情しか語らないんです。安和井さんの作るお面を楽しみにしていますよ」
五十嵐さんが帰ったあと、仁は机にむかって狐のお面を手にとってみる。張り子の白いところは色が変わり、薄い茶色になっている。その色がまだらになっているのは水に浸かったのが乾いたからだろう。右耳から額にかけて大きくよれたようにへこんでしまっていた。
これと同じものを……いや、同じものでなくていいと言っていた。そのときどきに、作る人がお狐さまを想像して作ってきたものらしい。だから木や漆のように後々に長く残るものでは作らず、張り子で作ってきたのだと。仁の想像するお狐さまを作っていいと言われた。そう言われても困るなあという気持ちと、ワクワクする気持ちがせめぎあっている。
仁は両手でお面を持った。紙の軽さ。目の穴が、じっとこちらを見返している。この狐はずっとここの人たちを守ってきたのだろう。ひっくり返してかぶるように顔に当ててみる。視野がぐんと狭くなって、むしろ遠くまで見える気がする。
その瞬間、ぐらりときた。床が揺れて、天井がかたむく。ふらふらと目が回った。
「ああ、できた」
静かな声が落ちて、すっと手が伸びてきた。女の人だ。誰だろう。ぼんやりとして手のむこうにあるはずの顔が見えない。見える距離のはずなのに、そこにあるはずなのに、わからないのだ。それでもなんとなく知っている人だろうと思った。
「こんにちは、狐さん」
指が狐の頬に触れた。優しくあたたかな触れかただ。彼女の口元が動く。なにを言っているのか聞き取れない。
なんだろう、なにか言っているのに……。聞こうとするほど、その声は遠ざかってしまう。ただ、その口元が嬉しそうに笑っていたのははっきりと見えた。
その瞬間、仁はそれが誰であるか認識した。会ったことなんて小さいころに数えるほどしかないはずなのに、なぜかそうだと確信をもった。
ガクンと首が折れて、慌てて顔をあげた。手にはお面。なにも変わらない。いつのまにか、うとうとしていたようだ。
「伯母さん……」
伯母はなにを思ってこのお面を作ったのだろう。それはもうわからないけれど、それはきっと祈りだろうと思えた。それがそうあることを望むという祈り。形にならないものに、一時的な形をあずけるという祈りだ。
それは不思議なコトだったり、複雑な人の気持ちだったりするのだろう。それに物体や言葉という形をあずける。人がそういうものを見て、触れられるように。
「やあ、ジンさん。お面作ってるんだって?」
「ガル夫さん」
あわい荘の庭、仁のベランダからひょこっと顔を出したのは牙狼。彼の視線の先には、固めた粘土で作った土台があった。元のお面より一回り小さく作ったものだ。
「へえ、張り子ってこうやって作るんだねえ」
牙狼はのぞきこみながら、ふむふむとしきりに感心している。この土台の上にラップを置き、でんぷんのりをつけた和紙を重ねていくのだ。しっかり乾かすことを考えると、もう時間がないので早く貼ってしまいたい。
またお面を作ることはできないと思った。でも、それは「やりたい」と同じ意味だった。俺はまだ未熟だ。今までなにも積み上げてこなかった。でも、なにかしたいと思った。自分の気持ちを形にできるように、がんばりたいと思えた。
「楽しみだねえ」
にこっと牙狼が笑う。そうだ。作るのが楽しみだ。この面を使って、お祭りでお狐さまを表現するときが楽しみになった。




