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1 あわい荘

 黒い夜、満月を背に、狼人間がのっそりと立ちあがった。ぱっくりと開いた口からは舌がのぞいている。金の目が俺をとらえると、はっと見開かれた。するどい爪が無造作にこちらにむけられる。

 ――それでも、ヤツを捕まえなければならない。絶対に。






 朝晩は涼しくなったが、まだ残暑の残る季節。安和井あわいひとしは鉄道に乗って、この街に来た。三津喜みつき市、山に囲まれた人口十五万ほどの地方都市。かつて、父方の伯母が住んでいた街だ。急逝した彼女の遺したものは、ひとつのアパートだった。


「かわいそう?」

「あわい荘だ、ジン


 父はそのアパートの管理人を継いでほしいと言った。高校卒業後、進学も働きもせずにいた俺に? できるわけがない。そう思ったが、あれこれ理由をつけて押し切られてしまった。そして九月半ばの夕方、最寄りの駅におりたというわけだ。




 安和井仁、二十一歳、男。俺は人が嫌いだ。人も俺が嫌いだと思う。


 三白眼で目つきが悪いため、よく怖がられる。通りすがりにギョッとされることは日常、にらまないでくれと言われるし、謝っても反抗的だと怒られる。いつも怒っていると思われて、いるだけで勝手に雰囲気が悪くなる。


 小さな駅に人はあまりなく、むしろホッとした。都会にいたときは、人混みを歩くと、ガンつけんじゃねえよといちゃもんをつけられることが多かった。平日にも関わらず、バスが一時間に数本しかないのは参ったが。




 バスに乗って二十分の住宅地に、「あわい荘」と書かれたアパートがあった。三階建てのコンクリート造りで、アパートという言葉から思いうかべるより大きい。アパートとマンションの区別がよくわからないが、父がアパートと言っていたので仁もそのままアパートと認識した。


 父から預かった鍵で管理人室兼住居の一〇一号室に入る。……伯母が住んでいた部屋だ。先月で止まったカレンダー、出しっぱなしの扇風機。父が葬儀のあと、すこし片づけたというが、雑然とした生活感がいっそう寂しい。


 伯母と最後に会ったのは、もう十五年も前のこと。「世界にはたくさんのあいまいな境界がある」。本を読むことが好きだった伯母はここでなにを思っていたのだろう。本棚の上に小さな小さな骨壷を置き、手を合わせた。


 さて、管理人の初仕事だ。住人のかたに自己紹介をしなければ。パチンと頬をたたいて気あいを入れる。


 正直、気が重い。伸ばし気味の前髪をよけるように、黒縁の伊達眼鏡をなおす。目つきがごまかせそうな気がして、出歩くときはかけている。洗面所の鏡を見て、にこっと笑ってみた。……やっぱり笑うのはやめておこう。




 まずむかったのは隣の一〇二号室。「東尾牙狼」の表札に、狂犬病予防接種済みのステッカー。犬がいるのかな。ここペット飼っていいんだ……。ふわふわかな、仲良くなったら触らせてもらえないかな。その表札の下に「なんでも屋」の小さな看板があった。ドアの下のほうにはなぜかへこみや傷がある。


 父は「むこうに行ったら、まず牙狼がろうさんに頼れ」と言っていたけれど、怖い人だったらどうしよう。いや、俺が怖がられるほうが先か。怖がられて、押し売りと間違われて警察を呼ばれたらどうしよう。


 そんなことを考えながら、思い切って指を伸ばす。息を止めて……えい。ピンポーン。仁はチャイムを鳴らして住人が出てくるのを待った。これでもう逃げられない。心臓がドキドキとして、ぎゅっと痛い気がする。


「はあーい」


 出てきたのはアッシュグレーの髪の、背が高い男だった。金の目はまんまるで、人のよさそうな顔だ。耳の上がとがっているのが特徴的で、一度会ったら忘れることはない風貌といえる。


「あ、ひ、東尾ひがしお牙狼さん、ですね……?」

「はいはいはい、そうで……」


 牙狼はなにかに気づいたように、跳ねあがって背を伸ばした。


「あー! 新しい管理人さんだあ。優子ゆうこさんの甥っ子さんですよねぇ?」


 伯母のことを名前で呼ばれて、思わずぎょっとしてしまった。仁はとっさに目線をはずし、慌ててごまかそうとする。


「は、はい、そうです。仁といいます。あの、今日から一〇一に住むので……」

「仁さん。はあい、わかりました。よろしくお願いしますねえ」


 ちらっと見たところ十八歳くらいだろうか。牙狼はにこやかに笑った。よかった、怖がられてない。俺は怖がられないうちにと焦って早口でまくしたてる。


「そ、それで、他の住人のかたには回覧板でお知らせしようかと思って……それでいいですかね?」

「んー……いいんじゃないですかあ? 早く顔見たいって騒ぐと思うけど。でも、もう遅いですし、今日は休んでくださいな」

「あ、これはお気づかいを……はい、ありがとうございます……」


 ひとつ頭をさげて仁は逃げるように一〇一号室に戻る。なんだかまだ見られてる気がして振りかえると、一〇二号室から牙狼が小さく手を振っていた。急いでもうひとつ軽く頭をさげて部屋に入り、ドアを閉める。


 ひさしぶりに人と話したのに、うまく話せなかった……と仁はドアの裏でへたりこんだのだった。


 牙狼は一〇一号室のドアを見つめて鼻をひくつかせる。


「ちゃんと挨拶したかったなあ……」




 コンビニのパンとチキンカツを食べて、机の上のゴミをまとめて袋に入れた。


 移動にくわえ、人と話して疲れたので、仁はもう寝てしまおうと思った。ところが、歯ブラシと歯磨き粉を実家に忘れてきたことに気づいた。まあいいか。近くにドラッグストアがあったし、たぶんまだやってるはずだ。サンダルをはいて外にむかう。


 日は落ちて、東の空にきれいな満月がのぼってきた。


「空が広い……」


 都会で生まれ育った仁には慣れない広さで、すこしだけ心細くなる。牙狼さんは俺を怖がらなかったけれど、じゃあ簡単に話せるかといえばそうはいかない。こんな感じで住人たちと話して、アパートをまとめることができるのだろうか……。




「うお――――――――ん!」


 暗くなった空に浮かぶ満月、どこからか犬の遠ぼえが聞こえてくる。静かな住宅街にやけに大きく響く。


「うるせーぞ!」

「うおお――――――――ん!」


 アパートの住人が次々に部屋から出てきて、怒りをむける。


「また一〇二号室か!」

「くそ、そういや今日、満月だったな……」

「おら! 出てこい、ガル夫!」


 ドンッ! 一〇二号室の前に集まった住人たちは、思いっきりドアをたたき、蹴飛ばした。 ガンッ! 


「もう、ほえるものにほえ返しても、うるさいだけでしょう?」


 出てきたひとりがあきれたように止めたとき。


「うおーん!」


 ガッシャーン! 盛大にガラスが割れる音がして、住人たちはなにがあったかを理解する。「それ」は窓を突き破り、ベランダから外へと飛び出していった。


「ひゃっほ――――――――う!」

「うわ――――――――!」




 一方、仁はドラッグストアからの帰り道で「それ」に行きあった。


 アパートの庭にさしかかったとき、ガッシャーン! と音がして、なにかが飛んできた。ガラス窓をぶち破ったのは大きな灰色の犬……? まるでホラーゲームのドッキリ演出のようだった。襲われる、と反射的に思い、腕で体を防御する。


 しかしその影は、仁に見向きもせず道をこえ、むこうの家の庭をこえ、去っていってしまった。なんだか嫌な予感がして、急いでアパートに走り帰る。すると、住人たちが一〇二号室の前に集まっていた。


「どうしたんですか⁉ 一〇二号室? 犬、犬が飛んだ! ……って、え?」


 奇妙な人たちだった。気まずそうに顔を見あわせた異形のものたち。ひとりは朽ちる途中のゾンビのようで、ひとりは八重歯が目だつ黒ずくめの男。ひとりは白い着物の女で、ひとりは額に二本のツノがある女だった。


「あー……」


 言葉が出てこない仁に、もうひとり、皮膚を縫いあわせた怪物が進み出た。その男の身長は、身をかがめていても天井に届くほど高かった。まるでそびえたつ壁だ。こんな服のサイズあるんだ……。


「失礼、新管理人の仁さんですね? 住人を代表して説明いたします」

「は、はあ……」


 見た目から想像した怪物とは違う、理知的な目で大男は語りはじめる。


「ガル夫……牙狼さんは人狼でいらっしゃいます。ここは人ではないものが住まうアパートでして」


 人ではない……。


「まあ……おばけみたいなものと考えていただければ」

「おばけ」


 仁はあからさまにビビった。昔から、おばけが怖くて布団(ふとん)から頭も足も出さずに寝て、よく窒息しそうになっている男なのだ。暗いとおばけがやってきて、見つかったら食べられてしまう気がする。自分が怖がられるのは嫌だが、怖いものは怖い。


「……そんなに怒らなくてもいいでしょうに」


 大男のような怪物が、困ったように頭を掻いた。


「怒ってません! え、じゃあ、牙狼さんも……?」


「狼男と言えばいいですか、満月の夜に狼人間になるのですが、その……テンションが爆あがりしてしまうのです」


 ギョッとした仁に、大男は手を振りながら慌ててつけ加える。


「もちろん人を襲うことはありません、ありません、が……」

「ちょっと興奮して、全裸になって公園で後ろ飛びひねり前方抱えこみ二回宙返りとかするだけですねェ」


 その後ろから、乾いた皮膚のゾンビがあっけらかんと言う。ええ……と嫌そうに顔をひきつらせた仁を安心させようと、大男がフォローした。


「大丈夫です、落ち着いて。まだ露出で捕まったことはありません」

「変質者じゃん、変質者じゃん!」


 全裸で体操とか、誰かに見られたら捕まるやつじゃん。恐ろしいおばけの想像が、一瞬でヘンタイに変わる。


「人の法は我々には適用できませんので……その、警察に保護されたことは、何度かありますが……」

「こんなことしてるあいだにも、電柱にマーキングでもしてるんじゃないかな?」


 ゾンビがクククと笑った。絵面がひどい!


「くそっ、早く捕まえるぞ! ヘンタイアパートになっちまう!」




 夜も遅かったが、仁たちは聞きこみをすることにした。近所の家を回っておかしなものを見なかったか話を聞く。


「そこで側溝に落ちたのを見た」

「ありがとうございます!」


 側溝にはべったりと泥がついている。ここで落ちたのだろう。


「走ってて勢いあまって植えこみにぶつかって穴を開けた」

「ごめんなさい!」


 きれいな植えこみには大きな穴が空いていた。


「うちの池に飛びこんでハマってたので助けたんです」

「ご、ごめんなさい、ごめんなさい!」


 あちこちで頭をさげながらも彼の足取りがわかってきた。それはともかく。


「言っちゃなんだけど、おっちょこちょいすぎない……?」


 大男が肩を落とした。


「そそっかしいので、大きなケガをする前に探してやらないといけないんです」




 証言をもとに、たどり着いたのは近くの小学校。警備会社のサイレンのなか、真っ暗な校庭に動くものがある。全身が灰色の毛でおおわれた、狼顔の、尻尾のはえたなにかがいる。


「いた!」

「いましたね……」


 満月に毛を光らせ、全裸の狼人間が夜の校庭を全力疾走していた。こっちの鉄棒で大車輪、あっちの砂場でブレイクダンス。本人の体には白い粉――おそらく線を引くための炭酸カルシウム――がついてブチ模様を作っていた。


 二宮金次郎像の前に、なぜか衣服が畳まれて置いてある。砂場の砂がまき散らかされ、ここ掘れワンワンとばかりに掘られたのだろう穴があちこちに開いていた。あまりの傍若無人っぷりに、仁はあんぐりと口を開けた。


「あれがテンションぶちあがりの状態でして……」

「動きにキレがあるなァ」


 ついてきた黒い服の八重歯の男が大げさに頭を振った。ゾンビが軽口をたたく。なんと返したらいいのかわからず、仁はうんていでけんすいをはじめた牙狼を見ていたが、大男がそっと本題を思いださせてきた。


「さて、あれをどうします?」


 どうすっかなあ……と仁は頭を抱えた。できれば見なかったことにしたい。見なかったことにしたいが、これからあのアパートに住むにあたって、住人がヘンタイという不名誉な噂を立てられては困る。


 一方、牙狼はタイヤの上を跳び、朝礼台から前転宙返りで着地した。ふと、つりあがった金の目が仁をとらえた。


 ――怖い。その目が、その牙が、その爪が。人間とは異なることわりを生きるものであると知らしめる。




「ワン!」


 牙狼は仁たちに気づき、上機嫌で尻尾を振って近づいてきた。大きなわんちゃんが遊んでくれというように。


「え、ええ〜……」


 拍子抜けしたが、これなら捕まえられそうだ。緊張しながらも手を出して、突進してくる牙狼を受け止めようとする。


 ところが牙狼は手が届く寸前に、がばっと地面に伏せ、尻尾を揺らす。待っているのか? 仁はそっと近づいて、羽交い締めにしようとした。けれども手が触れる前に牙狼が跳ねあがり、むこうまで飛んでいってしまう。


「ああ、遊ばれてますねえ……」


 黒ずくめがぼやいた。一方、牙狼は落ちていた縄跳びの縄を見つけた。ごろんと腰を落とし、もぐもぐと噛みはじめる。


「あ、こら! 噛むな!」


 思わず仁は出ていって縄をつかんだ。牙狼はぎょろりとした半目で見あげると、嬉しそうに縄を噛んだまま引っぱった。強い力に、仁は踏んばって引っぱり返す。


「ダメだって! この! はーなーせ!」


 仁が引っぱるだけ、牙狼も引っぱり返してくる。そして牙狼のほうが力が強い。縄跳びの縄が伸び切ったと思ったとたん、仁の足が滑り、振り回される。遊園地の回転ブランコのように、遠心力に任せて軽く宙に浮いた。


「待って! 止めて止めて!」


 手が痛い。でも離したら飛んでいってしまう。縄を振り回すのに夢中になって、だんだん牙狼の鼻にしわが寄ってくる。熱狂しているように目が怖くなってきた。ヴヴーッ……とうなって、その勢いのまま縄を振りあげた。


「うわああああああああ!」


 手を離してしまった仁は満月にむかって飛び、そのまま放物線に落ちていく。




「はい、二歩前。三、二、一、そこでキャッチー!」


 ゾンビのかけ声にあわせて大男が手を伸ばし、仁を受け止めた。


「仁さん、あれは……」

「あいつめ……」


 立ちあがって、仁は牙狼を見あげた。まるで昔飼っていたポメラニアンだ。楽しすぎて我を忘れている。バカにしやがって……仁を無視して遊ぶ牙狼に、だんだんと腹がたってきた。


「くそっ」


 仁はそこに転がっていたソフトボールをとって、高く掲げると牙狼に見せる。牙狼は思わず首をあげてボールを目で追った。


「そーら! とってこーい!」


 校庭の端からむこうまで投げると、牙狼は尻尾を回して走っていく。ジャンプして素直にボールをくわえた。お、これはいいかも。


「よーし、よしよし、いい子だ。こっち持っておいでー」


 ボールを持って、たたたた……と走ってきた牙狼だが、仁を華麗にスルー。仁の背後で腹を見せてボールを噛みはじめた。振りかえった仁がそっと近づくと、すぐに立ちあがって逃げ、捕まらないギリギリの位置をキープする。完全にバカにされている。


「こ、こ、このバカやろうー!」




「申し訳ございませんでした!」


 管理人になった翌日の仕事は、警察署で頭をさげることだった。結局、牙狼は早朝、砂場で腹を見せて寝ているところを捕獲された。全裸男性に戻って。


 ゾンビは「ほっときゃ遊び疲れて寝ますのに」と言った。「パンツはかせときましょう……」と服を持ってきてくれたのは大男。気がきくなあ……。でもパンイチでもまだあやしい人だなあ……。


「すみません……」


 牙狼はというと、しゅんとして縮こまっている。尻尾がまだあれば内側に巻いていたことだろう。


「満月だともう、テンション爆発しちゃって。はしゃぎたくてわけわかんなくなるんですよ……」

「いや、無事でよかったです。この前は事故にあいそうになっていたので」


 警官はもうなにもかもわかっている様子で言った。親切な警官さんでよかった。こういうことはよくあるらしい。よくある……。仁はこれからのことを想像してがっくりと肩を落とした。


「安和井さん、そんなに怒らないであげてください」

「あ……」


 顔に手をやって気づく。そういや今は眼鏡してないんだっけ。警官さんには俺が怒っているように見えているのか。


「……怒ってはいないです」


 怒ってはいない。この目つきのせいでそう見えるかもしれないが。


「わかる。あきれてるんだよねえ」


 けらけらと笑って牙狼が仁の背中を軽くたたいた。いったい、誰のせいだと思っている? これ見よがしにため息をついてみせたが、どこまでわかっているやら。思わず頭を押さえた俺を見て、警官さんが頬を緩めた。


「はははは、怒ってないのはよかった。これで怒ってたら身がもちません」




 まだ朝は早い。二人でアパートに戻ってくると、前庭にナイトキャップをかぶった少女がいた。薄い緑色の大きなサングラスをかけている。


「あら、ガル夫、どうしたの? 部屋のガラスが割れていたけど」

「あなた寝たら起きないですもんね。その、昨夜、満月でして」

「ああ、そう……」


 彼女はすぐに察したらしい。どんだけ繰り返してるんだ。ガラスの後片づけしないとなあ……。ガラス代って家賃に上乗せでいいんだろうか。あとで父親に電話してみよう。そんなことを考えていると、彼女は仁に声をかけてきた。


「あなたが新しい管理人さんね? あら、なにを怒る事があるのかしら?」

「いえ、それは、ええと……」

「仁さんは怒ってないよう」


 牙狼がぶーと膨れて口を出した。少女がふむ? と首をかしげると、ナイトキャップから一匹の細い蛇が出てきて、仁を見た。ペロペロと舌を出している。


「わ⁉」


 彼女のペットだろうか。頭に?


「たしかに、疲れてるだけね。怒ってないわ」

「え、疲れてるの⁉」


 大きな口を開けて驚く牙狼。一晩中、犬と遊び回ったら疲れるだろう。そもそも仁は体力が多いわけではない。もう全身へとへとになって怒る元気もないのだ。


「どうせ、管理人さんを振り回したんでしょ。だめよ、ヒトのこと考えなきゃ」

「そうかあ……ごめんね、仁さん。オレ、もっと仲良くなりたいんだけど」


 牙狼は眉をさげた。おい、まるでこっちが悪いみたいじゃないか。


「なら、自己紹介でもすればいいじゃない。昨日来たばかりなんでしょう?」

「仁さんだよ! それ以外知らない! でもいい人なんだ!」


 嬉しそうに仁を「いい人」だと言う牙狼。新学期、にこやかに自己紹介したとたん、しん……と静まった教室を思いだす。みんな怖がって声をかけてくれなかったじゃないか。影で「ナイフ持ってそう」「陰気スケベ」と言われていたのに。


「……安和井仁です」


 そこで詰まってしまった。頭が真っ白になり、なにを言えばいいのかわからない。うろうろと手をさまよわせる。


「ええと、あと、趣味とか……? 今読んでる漫画は……って、聞けよおい!」


 その間に、牙狼はするっと仁の背後に回った。そして尻に鼻を近づけた。くんくんと匂いをかぐ。


「ひゃん⁉」

「うん、優子さんの親戚だあ。昨日、コンビニのチキンカツ食べたでしょ?」

「ヘ、ヘ……」

「あれおいしいよねー。オレも好きー」

「この、ヘンタイやろう!」


 思わず仁は牙狼を力いっぱい突き飛ばしてしまう。ごろんごろんと転がった牙狼はしゃがみこんで頭を押さえ、哀願するように仁を見あげた。


「優子さんの甥っ子さんだから、ちゃんと挨拶したいんだよう……」


 蛇をまとわせた少女は愛想をつかしたように言い捨てる。


「ほんとバカ犬ねえ。人間に肛門腺はないじゃないの」

「あってたまるか⁉」

「じゃあ、オレのお尻かぎます?」

「しないよ⁉」


 ともあれ、こうして仁のあわい荘での日々がはじまった。

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