7章: 第15話「陽を向く者へ」
昼を少し過ぎた石畳の路地は、熱の残り香を吐き出していた。
軒の低い家々の壁には古い煤の跡がまだ薄く残り、ところどころに細かな欠けや穴がある。遠くで金属を叩く音――曲がった扉を直す音か、補修用の鉄を切る音か――が、乾いた空気に薄く響いてくる。焼いたパンとスパイスの匂いに、焦げた木材の記憶がほんの僅かに混じっていた。
マシェ婆さんが屋台に現れたのは、そんな時間帯だった。
背を少し丸め、砂色のスカーフを深くかぶり、杖の先で石畳を小さく鳴らしながら、炎のそばへと近づいてくる。
「……シャワルマ、ひとつ」
チトはすぐに気づき、手を止めて顔を上げた。
「今日は……いつもより近いね」
マシェは答えず、香辛料の匂いを嗅ぎながら、鉄板で焼ける肉をじっと眺めていた。
カッツは合図も要らず、いつもの手順で油の量を見極め、肉を返し、焼け色を確かめる。刻んだ酢漬け野菜の水気を切り、平パンを軽く炙ってから具をのせ、きゅっと巻く。
「……ほらよ」
マシェはそれを受け取って、息を吐くみたいに短く笑った。
「……火の匂いってのは、あたしには毒みたいなもんだったのさ」
「毒?」とチト。
「若い頃、あたしは炊き出しの係だったんだよ。避難してきた人に、煮た豆や焼いたパンを配って回る役目。毎日、どこかで火をつけてさ……」
マシェの視線が、路地の端――黒く煤けた壁の角へと流れる。
「……でも、ある日、火をつけるなって言われた。“その火は、ヒナタのやり方だ”ってな」
チトの指が、包丁の柄の上で止まる。
「ヒナタ……?」
「そう。あたしらの村で、最初に火を囲んだ家の名さ。“陽に向かう者”なんて、聞こえはいいが――」
マシェは手にしたシャワルマの端を、親指と人差し指で小さくちぎる。
焦げ目の香ばしさとスパイスの熱が立ちのぼる中で、苦い声が続く。
「……あいつらが火を囲んでたせいで、狙われたのさ。“集まる場所”ってのは、いつだって的だ。家族も、鍋も、火も、まとめてな」
「でも、それって――」とカッツが口を開きかける。
「わかってるさ、あの子らが悪いわけじゃない。けどな……陽を運ぶ者は、同時に影も作るんだよ」
路地の奥で子供たちが笑う声がしたかと思うと、すぐ隣では、年寄りが瓦礫を桶に入れて運んでいる。
“陽”と“影”が、同じ通りをすれ違っていく。
チトは息を呑んで、包丁の手を止めた。
「ヒナタは――運んだ。光を、火を。だけど、その後ろには、焼け落ちた村もある。……あたしの家も、そうだった」
沈黙。
炭がひとつ弾ける音だけが、ふたりの間に残った。
「……あたし、ずっと考えてた。ヒナタって名前を、名乗るべきかって」
マシェは黙ったまま、香ばしく焼き目のついた平パンをかじる。
中の酢漬け野菜が、カリッと小さく音を立てた。
「……そいつは、火を持つってことだ。簡単じゃないよ。持ち運ぶだけじゃない。“見られる”ってことだからな。集める、照らす、そして――時に、狙われる」
「でも、背負いたい。」
チトの声は低く、しかし揺れていない。
「私が背負うことで、もう誰も、“火を持つ者”を孤立させたくないって……そう思ったから」
風が路地を抜け、炭の灰をふわりと巻き上げる。
マシェはしばらくの間、沈黙を続けて――そして、口を開いた。
「ヒナタの子は、陽に向かって火を運ぶ。……それは、消えることを恐れてるからだと思ってた。でも、違うかもな」
「……え?」
「ほんとは、“消える火に意味を残すために”灯してたのかもしれない。自分が焼けてもいいってつもりで」
チトは、そっと目を伏せる。
屋台の横、古い壁の欠け目に入り込んだ光が、揺れる炎に合わせて細く震えた。
「……ありがとう」
マシェは立ち上がる。足取りはゆっくりだが、その背中には先ほどよりも温もりが宿っていた。
「名を継ぐってのはな、恩讐も一緒に受け入れるってことだ。……その覚悟があるなら、ヒナタを名乗りな」
そして去り際に、振り返らずこう言った。
「火は誰のものでもねぇ。ただ――残す奴のものだ」
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その夜。
屋台にはふたりの影があった。カッツが炭をならし、チトは酢漬けの野菜を刻む。
遠くで祈りの声がゆっくりと途切れ、代わりに軒先のランプが一つ、また一つと灯る。
修繕中の家からは、工具を片付ける金属音が最後にひとつ鳴って、静けさに吸い込まれていった。
火に照らされた彼女の横顔は、静かで、あたたかかった。
「…ヒナタってさ。その……いい名だよな」
カッツが呟くと、チトは少しだけ照れて笑う。
「なんか、みんな“ヒナタって誰?”って聞くけど――」
「答えられてるか?」
チトは一拍の間を置いて、胸に手を当てた。
「“みんなの希望だよ”って、そう答えた。……それで、いいよね」
「副店長の返しにしては、最高だな」
二人は小さく笑い合い、今夜もまた、平パンに火を包んだ。
パンがきしむ音、肉汁のじゅっと鳴る音、スパイスの熱い香り――そのすべてに、名の手触りが加わっていく。
やがて、路地を渡る風が、屋台の灯りを一度だけ揺らした。
しかし芯は揺れない。そこには確かな強さがあった。




