7章: 第14話「火は名に宿る」
朝の屋台は、静かな準備の音で始まっていた。
鉄板の表面をこすり、トングを磨き、香辛料の瓶をひとつずつ点検する。
チトは口を結んだまま、火格子にしゃがみこみ、炭を慎重に並べていた。
風が吹いても飛ばないよう、小さな石を添える。
昨日、リフから言われた言葉が、頭の中に残っていた。
「──名前、どうする?」
まるで、息をのむような質問だった。
彼は穏やかに、いつもの調子で訊いただけだったが、チトにとってはそれがすべてだった。
「おはよう。まだ火は起こしてないんだね」
リフがやって来た。
洗ったばかりの白いシャツに、乾いた砂色のケープを羽織っている。
エル=ミーラに来たばかりの頃と、服装はあまり変わっていない。
だが、目の奥にある光だけが、ほんの少し強くなっていた。
「うん、もうすぐ起こす。リフ……昨日は、ありがとう」
「いいえ。何もできなくて、すまなかった。
けれど、今日の君が火を起こすと聞いて、心からうれしく思ってる」
ふと、リフは懐から何かを取り出した。
それは、古い羊皮紙に丁寧な字で書かれた名簿用紙だった。
ティレニアへの出立者名簿。その一番下に、二つの空欄がある。
「ここに、旅人の名前を記入するんだ。
ひとつは、名乗りたい名前。もうひとつは、通行者としての身元を示す名前──」
チトは用紙を見下ろした。
一度も名乗ったことのない“ヒナタ”という家名が、心の中で揺れていた。
「“チト・ヒナタ”って、書くべきなのかな……」
小さくつぶやいた声が、空の鉄板に吸い込まれていく。
「僕の意見を聞いてもらってもいいかな?」
リフが静かに言う。
「君が“ヒナタ”という名を、怖れているなら、それは自然なことだ。
この街では、その名前は時に……火種になる。過去の因縁や、誰かの痛みを呼び起こすものでもあるから」
「……わかってる。
でも、“ヒナタ”って名前が、ほんとはどんな意味だったのか──
この旅で、ずっと考えてきたの」
チトは、そっと護符に手を当てた。
あの日カッツからもらった、小さな石の護符。
最初はただのお守りかと思っていたが、街の老婆や子供たち、そして料理を通じて、
“名前”が火に宿るものだと知った。
「ねえリフ。“ヒナタ”って……ほんとは、どういう名前だったと思う?」
「それは……僕の家には、こういう言い伝えがあるよ」
リフは少し笑って、背負っていたカバンから古い木彫りの板を出した。
そこには、太陽のような意匠が刻まれていた。
「“陽を運ぶ者”。
燃える太陽そのものじゃなくて──
その光を、誰かに運ぶ者。自分を焼いて、差し出して…そうすることで、他人を照らす者。
“ヒナタ”という名には、そんな意味があると、僕たちは聞かされてきた」
チトは驚いたように目を見開いた。
「……それ、初めて聞いた」
「この街の誰もが、“ヒナタは裏切り者だ”としか語らない。
でも、どちらが真実かなんて、きっと誰にも決められない。
だからこそ──君が決めていいんだ。“ヒナタ”という名前を、これからどう灯していくか」
しばらく、ふたりの間に言葉がなかった。
風が炭を揺らし、小さな灰がひとつ舞い上がった。
「……ありがとう、リフ。
あたし、自分で決める。誰のためでもなく、自分の火として。
もし、それがこの街で“陽を運ぶ”ことになるなら──」
チトは、火格子に火打石を打ちつけた。
ぱち、と乾いた音と共に、静かな炎が灯る。
「……あたしの名前、“チト・ヒナタ”で、いいよ」
リフは優しく微笑み、うなずいた。
「ようやく会えたね、本当の君に」
*
夜が近づくエル=ミーラの空は、どこか霞がかっていた。
乾いた風が炭の匂いを連れてきて、遠くで祈りの声が聞こえる。
屋台には、少しずつ人が集まりはじめていた。
といっても、並ぶほどではない。
けれど──明らかに、視線は変わっていた。
「お、焼いてるな」
「昨日はどうなるかと思ったぜ」
「今日の火は、よう明るいなあ」
誰かがつぶやき、誰かが小さく笑う。
ふたりの焼く肉の香りが、風に乗って広がっていく。
チトは、焼きあがった鶏肉を平パンにのせ、トゥームを塗った。
そこに、ナスとトマトのペーストを重ねる。
仕上げに刻んだ酢漬けの野菜を載せ、きゅっと巻く。
「……よし。完成」
「おう、いい色だな」
カッツがトングを置いて覗き込む。
手元のサンドをひとつ受け取って、軽く頷いた。
「……名前、決めたんだってな」
「……うん。聞いたの?」
「リフが、書類の控え持ってった。そっちで“旅人登録”だとさ」
「はやいなぁ……」
チトは少しだけ照れくさそうに笑った。
ふと、列のなかから子供の声がした。
「ヒナタって、名前なの?」
チトは少し考え、うなずく。
「うん。“チト・ヒナタ”。それが、あたしの名前」
少年は嬉しそうに笑った。
「そっか……じゃあ、これは“ヒナタのパン”だね!」
「……もし“ヒナタの火”が、この味の中に入ってるなら──」
彼女は、少し遠くを見るように言った。
「それでも、悪くないかもね」
そのとき、ふと視線を感じた。
通りの向こう、瓦礫のそばにひとり立つ老婆──マシェ婆さんだった。
相変わらず無表情で、何も言わない。
けれど、今日だけは立ち去らず、じっとこちらを見ていた。
チトは、小さくうなずいた。
──名は、誰かに強いられるものではない。
けれど、それでも“受け取る覚悟”は必要だった。
それを、今日の火が教えてくれた。
「はい、お待たせ。熱いから気をつけてね」
できたてのシャワルマを子どもたちに渡す。
ひとつずつ、手から手へ。
そのたびに、誰かの目が柔らかくなっていく。
カッツがふと、呟いた。
「……火は名前を持たない。でも、誰かの手で灯されたとき──それは、誰かの名を宿す」
「うん。“火”そのものが記憶してるんだよ。
どう灯されて、どう分けられたか──名前より先に、温度が覚えてる」
カッツは笑った。
「料理人らしいな」
「うるさい」
ふたりは笑い合い、また火に向かう。
その夜、屋台の灯りは静かに揺れていた。
けれど、その芯には確かな強さがあった。
名を受け入れるということは、過去を継ぐということ。
そして同時に、未来を灯すということ。
“チト・ヒナタ”。
その名前が、今夜この街角に刻まれた。
誰かの記憶に、火とともに残る──
そんな“焼き跡”を、彼女はようやく灯したのだった。




