7章: 第13話「灰の祈り」
朝のエル=ミーラは、どこかひどく乾いていた。
空は透き通るような青で、雲ひとつなく、風もない。
それなのに、街を歩く人々の足音や、遠くで開く木戸の音がやけに鮮明に響く。石畳を踏む靴の硬い音が、やけに乾いた空気に跳ね返ってきた。
屋台の影で、チトは黙々とナスの皮を剥いでいた。
皮に残る焦げ目を指先で感じながら、くしゃりと潰し、刻んだトマトと合わせる。
昨夜、少年がくれた包み──“火の名残”とも言えるそれは、まだかすかに温かく、香ばしい香りを漂わせている。
「チト。炭、起こすぞ」
「うん……」
カッツがうなずき、鉄格子の下に手を差し入れる。
乾いた炭の山に火打ち石が当たり、金属音が響く。火花が舞い、やがて小さな赤が黒い山に宿った。
ぱちり、と炭が鳴く。まるで「まだ生きてる」と答えたようだった。
「……今日は、焼くよ」
チトは格子の前にしゃがみ込み、じっと火を見つめながら言った。
「ただ“灯す”だけじゃなく、“焼く”。あたしは……焼くために、ここにいるんだと思う」
昨日の夜の襲撃の痕跡は、まだ屋台の周囲に残っている。
焦げた布、割れた壺の欠片、踏み荒らされた土。
街の空気も変わらない。よそ者への視線、否定、黙殺。
けれど、その視線を受け止めるチトの横顔には、もう怯えはなかった。
彼女は、少年から受け取ったスパイス入りのペーストを、手のひらでゆっくり練り直す。
香りが強まると同時に、焼いたナスとトマトの甘みが混じっていく。
「これは……“最後のシャワルマ”のつもりで作る。明日があるかなんて、保証ないからね」
「……それでも焼くんだな」
カッツの問いに、チトは静かにうなずいた。
「うん。もし今日、また火が消されたとしても。あたしはこの街に、“焼いた”って痕を残しておきたいの」
その響きは祈りに似ていた。
声にしない願いを、形にして残す、誰かへの手紙のように。
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パンが焼けはじめた。
鉄板の上で、ナスとトマトとスパイスの香りが絡み合い、熱気を帯びて広がっていく。
ヨーグルトもハーブもない。だがこれは確かに、昨日より強く灯された味だった。
通りの向こうから足音が近づく。
「……ひとつ、もらっても?」
声の主は、昨日までは目を背けていた老婆だった。
布の端を手で握りしめ、少しだけためらいながら近づいてくる。
カッツが軽く会釈し、チトがパンを包む。
ナスの皮の香ばしさ、スパイスの熱、トマトの柔らかさが、ひとつの包みに重なった。
「……熱いよ。気をつけて」
老婆はそれを受け取り、両手を胸の前で合わせた。
「……火を、ありがとう」
その一言に、チトはほんの少しだけ目を細め、微笑んだ。
それは、昨日までの硬い表情ではなかった。
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夜になり、屋台の前には灰が残った。
風がそれを舞い上げ、夜空へと昇らせていく。
けれど灰は、終わりではない。
火が残した証。誰かが生きた証。そしてまた新しい火種になるものだ。
「なあ、チト」
「……なに」
「“焼く”って、案外、遺すことなんじゃないかって思った」
「……あんたにしちゃ、いいこと言うね」
「だろ?」
ふたりは火格子を整えながら、どこか安心したように肩を並べた。
その姿は、沈黙を恐れない者たちのそれだった。
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「……明日、リフが来るって」
チトがそう言ったのは夜も更けた頃だった。
グリル・ノマド号の炭火は落ち着き、鉄板はすでに冷えはじめている。
「荷物の受け渡しに立ち会うらしい。例の、ティレニア行きの」
「……廃棄物資の搬出」
「名目はな」
短いやり取りのあと、風が火種を揺らし、チトの髪をそっと動かした。
「つまり、ここにいられなくなるってこと?」
「いや──たぶん、ここに“残ってはいけない”ってことだ」
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翌朝。屋台の前には数人の子供が集まっていた。
ひとりが焼きナスを指差し、もうひとりがチトに「それなに?」と訊ねる。
笑うでもなく、逃げるでもなく。ただ、そこに火があることを見に来た顔。
「……ちょっと待っててね」
チトは残っていたトマトとペーストで小さなサンドを作り、子供たちの前に並べた。
「これ、昨日より少し辛いよ。気をつけて」
子供たちは目を見開きながら、それを手に取った。
小さな火が、また誰かの口に入っていく。
それだけで胸の奥が少しだけ温かくなった。
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昼過ぎ、リフが現れた。
変わらぬ整った身なりに、落ち着いた物腰。
「……昨日のこと、聞いたよ。大丈夫だった?」
「ああ、ありがとな。無事だったよ」
リフは少し言いにくそうに告げた。
「ティレニアへの輸送が一本、急に空いた。人手が足りなくて──“旅人の支援枠”で一組、便乗できるらしい」
それは支援というより、やんわりとした退去勧告に近かった。
しかしカッツは責めず、ただ問い返す。
「案内は……してくれるのか?」
「もちろん。ここで燃やした火を、あっちに持ってってほしいと思ってるから」
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その夜、チトは火格子を洗っていた。
「……昨日、怖かったし……あの時、ほんとは、火を消そうって思った」
「でも──消さなかった」
「……うん」
「昨日、ばあちゃんに言われたの。“火をありがとう”って」
「言葉は……残るからな。ちゃんと届いてる」
チトは小さく笑い、静かに頷いた。
「だから、焼くよ。明日も。その次も。行くなら、行く先でも。あたしの火が……燃える限り」
「……いい顔だな、チト」
「うるさい」
夜はまた来る。
だが、今日の火は昨日よりわずかに明るい。
パンの香りに、子供の声が混じる。
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「……なあチト、名前、どうする?」
「ティレニアでは、旅人登録がいるらしい。名簿、顔写真、身分の記録」
チトは少し目を伏せ、灰を拭った手でリボンを直した。
「“ヒナタ”を名乗るかどうかは……まだ、答え出てない」
それは自分が誰の火を継ぐのか、どこまでを自分として灯すのかという問いだった。
「……考えとく」
火格子に映ったその瞳には、名前以上のもの──
生き方と覚悟が、確かに揺らめいていた。




