7章: 第12話「焦げた風の夜」
エル=ミーラの夜は、静かに始まる。
日没とともに礼拝堂からの祈りの声が途絶え、代わりに軒先のランプがひとつ、またひとつと灯る。石畳の隙間には昼間の熱を含んだ砂が詰まり、夕風に舞い上がるたびに香辛料の香りと混じり合う。
市場の通りの外れ、小さな三叉路に、グリル・ノマド号は腰を据えていた。鉄板の上では、刻んだ肉が脂を落とし、ジリジリと音を立てている。焦げ目のついた平パンは布に包まれ、トマトと玉ねぎは桶の中で冷やされていた。
しかし、この夜は何かが違った。
昼間の賑わいが嘘のように、足を止める客はいない。通りすがりの視線は、肉ではなく屋台の奥に向けられ、やがて足早に去っていく。
「……さっきのやつ、睨んでたな」
鉄板から目を離さずにカッツがつぶやく。
「うん。ここ数日、ああいうの増えてる」
チトは淡々と玉ねぎを刻みながら答える。刃先が木の板を叩く軽い音だけが響く。
二人には理由が分かっていた。
この街では“火”は生活の象徴であり、家ごとの色を持つものだ。夕餉の匂いはそのまま家族の匂いであり、隣家と違えば誇りにも恥にもなる。そこへ、街の外から来た誰かが、堂々と通りで火を起こす──それは、少なからず反感を買う行為だった。
カッツは鉄板の肉を返しながら、小さく息を吐いた。
「料理はどこでも焼けると思ってたが……そうでもねえか」
チトは切った玉ねぎを桶に落とし、視線だけで周囲を見渡した。軒先の陰から、数人の影がこちらを見ている。目が合うと、すぐに顔をそむけた。
夜は、まだ始まったばかりだった。
それは、夜が深まりきる少し前だった。
通りの奥から、割れるような怒声と、陶器が砕ける音が響いた。
次の瞬間、ノマド号の側壁に石がぶつかり、乾いた衝撃音がはね返った。
「火、落とせ!」
カッツの声が鋭く響く。
「了解──!」
チトは素早く格子の下に手を差し入れ、炭を覆う鉄蓋を引き寄せた。だが、わずかな隙間から赤い火がまだ瞬いている。煙が蓋の端から逃げ、夜気に混じった。
そこへ、地面を蹴る足音。
黒布で顔を覆った数人が、屋台を半円に囲むように現れた。厚手のマントの裾から覗くのは、削れた木棒や鉄くずのような武器。
石がもう一度飛び、積み上げてあった平パンの布に当たり、砂埃が舞った。香辛料の壺が倒れ、乾いたクミンと胡椒の香りが夜に弾ける。
「“誰の許しでこの地に火を立てた!”」
甲高い声が闇を裂く。続いて別の男が叫ぶ。
「“この街にはお前たちの火などない!”」
カッツが一歩前に出ようとしたが、その腕をチトが掴んだ。
「……ダメ。あいつら、話が通用しない」
その声は低く、鋭く、警告のようだった。
彼らの視線は、屋台の売上にも料理にも向いていない。ただ、この場に存在していること自体を否定する色をしていた。
火を囲んではいけない。パンを焼いてはいけない。
名も告げず、足跡も残さず、ただ通りすがりの影であれ──そんな意思だけが、空気を押しつぶしていく。
外から人々のざわめきが近づいた。義勇軍の制服が灯りの向こうに見えたとき、黒布の集団は舌打ちをひとつ残し、影のように路地へと消えていった。
残されたのは、焦げた布切れと、割れた陶器の破片、そして散乱したパン屑。
静寂が戻ると同時に、カッツの呼吸がやけに大きく聞こえた。
義勇軍が現場を確認し終えたころには、屋台の周囲はひどい有様だった。
布の端は黒く焦げ、香辛料は地面にぶちまけられ、鉄板の端には砂と破片がこびりついている。
火そのものは落としきれなかったが、あたりの空気からは熱がすっかり奪われていた。
チトはしゃがみ込み、焦げた布の端を指でつまんだ。
「これは、“灯すな”って意味だね」
低い声が、夜の冷たさと混ざった。
「“お前たちの火は、この場所のものじゃない”って」
カッツは答えず、壊れた壺をひとつ拾い上げ、残っていたスパイスを掌にのせた。
香りを嗅ぎ、拳を握りしめる。
「……火は、場所じゃなくて、生き方だろ」
チトがわずかに目を伏せる。
「けど、“つける相手”を間違えると火傷もする」
その夜、ふたりは鉄板を片付け、火を完全に落とした。
灯りのない屋台の横で、風だけが路地を抜けていった。
──そして翌朝。
薄い朝靄の中、屋台の前に小さな包みが置かれていた。
焼きナスの柔らかな香り。刻んだトマトの赤。スパイスとごまペーストを混ぜた、濃厚な香りのペースト。
それは、この街でよく食卓に並ぶ“ガヌバーシュ”に似ていた。
包み紙の端には、小さな炭の跡があった。
誰かが火で炙って乾かした証拠。
「……あの少年かもしれない」
チトの声は、やや掠れていた。
「“火の意味は奪うものじゃなく、分けるもの”って……そう言ってるみたいだ」
カッツはしばらくそれを見つめ、それから静かに笑った。
「……じゃあ、返すか。俺たちの火で」
朝の市場の音が遠くから近づいてくる。
ふたりは包みを屋台の作業台に置き、炭を起こしはじめた。
新しい一日の最初の煙が、細く真っ直ぐに空へ昇っていった。




