7章: 第10話「火は選ばない」
スークの東端、かつて砦だった石壁の残骸を越えた先。
焼け跡の空き地に、ひとりの青年が立っていた。
風が灰を巻き上げ、鉄くずと風化した布地が重なり合う廃墟の中で、
彼だけがまっすぐ立ち、静かな意志を宿していた。
「……この屋台の“火”、貸してくれないか?」
名はアルー。義勇軍《赤の盾》の志願兵。
手には武器ではなく、乾いた薪と空の鍋。
カッツの屋台《グリル・ノマド号》を訪れた彼の瞳には、焦りと決意が混ざっていた。
「俺たちの区画に、老人と子供が集まってる。
食糧はある。でも……火種がないんだ」
カッツは炭の音に耳を澄ませながら、黙ってアルーの手元を見る。
小さな金属缶の中には、割れたナツメの薪と炭のかけら。
わずかに焦げの香りが残っている。
「……その火、お前のか?」
「はい。何日か前、別の屋台で分けてもらった。
でも、もう保たない。次に焼ける火がないんです」
チトが眉をひそめる。
その腕には、今日焼き上げた平パンが積まれていた。
小麦とオリーブ油を合わせた柔らかな生地──
エル=ミーラで学んだ新しいパン。
カッツは刻んだ酢漬け野菜と香辛料で漬けた肉をその平パンにのせ、
「トゥーム、少しだけ。酢で伸ばして」
とチトに声をかける。
にんにくの香りが夜気に広がった。
それは彼らが《ナン》と呼んでいたものから進化した、屋台の新しい主力──“シャワルマ”だった。
「俺たちは、名前のない人のために焼きたいんです。
宣伝も、支配もいらない。……ただ、温めたいんだ」
カッツの瞳に、言葉にならない光が揺れた。
火格子の横で、しばしの沈黙。
炭が赤く膨らみ、静かに呼吸している。
そしてカッツは言った。
「……貸そう」
アルーの瞳が驚きに揺れる。
「ただし、“火”は、選べねえ」
カッツは火ばさみで燃え盛る炭を一つ拾い、小皿に移した。
皿の底には、オリーブ油を塗った平パンの焦げ跡。
その中央に火が置かれる。
「焼くか、温めるか。善か、偽善か。──火は選ばねぇ。ただ燃えるだけだ」
「……でも、あんたは選んだ。俺に渡すって」
チトの声が、風のように横から差し込む。
「選ばない火を、あんたは選んだ。
あたし、それって……料理人の誇りだと思う」
アルーは小皿を大事に包み、深く頭を下げた。
「この火で、俺たちも焼きます。できるかぎり、うまいやつを」
「おう。焦がすなよ」
「……はい」
ひとつの火が、ふたつに分かれた。
⸻
その夜、グリル・ノマド号の火は、いつもよりわずかに小さかった。
だが屋台に立ち寄る人の数は変わらない。
焼けた香辛料の香り、ピクルスの酸味、焦げの香ばしさと、
白くきらめくトゥームの風味が夜に満ちていた。
「……さっきの兄ちゃん、来てたな」
「裏通りの老人たちにも、パン配ったって」
「うまかったよ。少し焦げてたけど、あったかくて」
チトは火格子に残る炭を見つめる。
風に揺れる焔は静かで、まるで眠っているようだった。
「火は選ばない。けど……それを誰に渡すかは、あんたの選択なんだね、カッツ」
カッツは静かにトングを握り、もう一枚平パンを炙る。
アミルからもらった薪のかけらを、火格子に足した。
「……選んだら、背負うことになる。それでも、焼くさ」
「ふーん。……じゃ、背負ってもらうね。あたしも、あんたも」
平パンの上にのった肉の香りが、エル=ミーラの夜をほんの少し温めた。




