7章: 第8話 「陽を運ぶ一族」
空は、灰の色をしていた。
光はなく、熱だけが肌にまとわりつく。
乾いた風が香辛料の匂いを運び、遠くで市場の呼び声がくぐもって響いていた。
砂に磨かれた石畳の奥から、古びた屋敷の門が現れる。
カッツとチトは、城壁の北端──アリム長老会の居住区へと足を運んでいた。
「……こっちはアリムの地だ。気を抜くなよ、チト」
小声でそう囁くカッツに、チトは黙って頷く。
案内された庭の奥、日陰に沈む縁台に、その人はいた。
背筋は曲がっている。
だが、ひと目でただ者ではないと分かる気配を放っていた。
目元の皺が、長く火を見つめてきた者の刻印のようだった。
「……よく来てくれたな。そなたが“ヒナタ”か」
チトの肩が一瞬だけ揺れる。
だが、視線は逸らさずに口を開いた。
「……チト、です。“ヒナタ”という名は、まだ……」
老人の目が、チトの腰に下がる淡く光る護符に留まる。
「名とは、背負うものではない。……思い出すものじゃ」
静かに笑うその表情は、炎の向こうを見ているようだった。
「ヒナタは、我らアリムの誇り。あの子は、誰にも属せぬ火を持って旅立った。
太陽のかけらを胸に宿してな」
チトは目を細める。
まるで真逆だ。昨日出会った老婆は、ヒナタを“裏切りの名”と罵ったのに。
「……なぜ、そう言えるんですか? あの名には、怒りと憎しみしか――」
「そう見えるように、仕組まれたからじゃよ」
老人の声は、重い石を置くようだった。
「セファとアリムは、もともと兄弟だった。違うのは“灯す火”ではなく、“信じる夜明け”だけだった。
だが、“争いの灯芯”を植えた者がいた。そなたも、もう薄々感じておるだろう?」
「……第三の者。争いを育て、火を奪う側の存在」
カッツが低く呟く。
老人は頷き、チトへと向き直る。
「ヒナタは、夜明けを知っていた。どちらの夜も、その向こうに同じ太陽があると知っていた。
だからあの子は、《火を奪う者》にも《火を恐れる者》にも与しなかった」
胸の奥で、硬く結ばれていた何かが、ほんの少しほどける。
それは、凍った水がわずかに陽を浴びたときのような感覚だった。
「――それでも、名は残らなかった」
「名は、残らなかった。だが、“火”は残ったのじゃよ」
老人はゆっくりと立ち上がる。
背筋は曲がっているのに、その眼差しは空を見ているようだった。
「お主が今、火を運んでいるということは……ヒナタの旅は、まだ終わっておらぬということじゃ。
ならば、名もまた……終わってなど、おらん」
⸻
帰り道、チトはずっと黙っていた。
石畳を踏む足音と、乾いた風の音だけが続く。
「なあ」
カッツがようやく口を開く。
「お前……どっちの話を信じる?」
「……どっちも本当だった、って思う。
でも、それだけじゃ……足りない」
「足りない、か」
「……ヒナタは、火を持って出た。
でも、それが“希望”だったのか、“罪”だったのか……誰にも決められなかった。
だから、火だけが残った。名は……燃え尽きて」
ふたりは沈黙したまま、壁際の広場へ辿り着く。
《旧市場区》。
その一角に、小さな祭壇のようなものがあった。
火の名を持たぬ死者を弔う場所だという。
壁に刻まれた名の中に、「ヒナタ」の文字はなかった。
それでも、チトはそこに手を置いた。
ひやりとした石の感触が、手のひらに染み込む。
「……あたしさ」
ふいに呟く。
「ヒナタって名前、前は怖かった。
“裏切りの火”って言われたときも、どこかで納得しちゃったんだ。
でも今は――ちょっとだけ、知りたいって思ってる」
「お前の名前の話か?」
「ううん」チトは首を振る。
「ヒナタが……どんな火を、誰に渡したかったのか。それを知りたい。
だって……」
風が吹く。市場跡に溜まった埃が舞い、陽の届かぬ空へとほどけていく。
「……それを知らなきゃ、“あたしの火”が、誰の続きなのかも分からないから」
カッツは黙って頷いた。
この街には、まだいくつも“名を失った火”が残っている。
そのひとつひとつが、誰かの旅の途中だったのかもしれない。
そして、いま隣にいるチトの名も、まだ旅の途中にあるのだろう。
⸻
長老の部屋は静かだった。
石灰で白く塗られた壁に、細やかな刺繍の布。
床に敷かれた薄い絨毯の上で、チトは正座し、隣でカッツが胡坐をかいている。
「おまえの名は……《ヒナタ》だと言ったな」
長老は顔を近づけ、深い皺の間から澄んだ瞳を覗かせる。
「その名はな……かつて陽を運んだ娘の名だ」
チトの喉が、小さく鳴る。
「ヒナタは、セファでもアリムでもない。
どこにも属せぬ者たちの火を、その腕に包んで……ただ歩いた。
それが、わしの記憶にある《陽を運ぶ者》の姿じゃ」
「……そんな人が、本当にいたの?」
声は細く、震えていた。
「おったとも。
だがな、語りの内容は、どちらの街区でも違う。
セファでは“裏切り者”。アリムでは“去った者”。
そしてスークでは──ただの風のように、語られなくなった」
長老の指が、絨毯の端をなぞる。
それは、遠い記憶を呼び起こすような手つきだった。
「わしらは、陽を運ぶ者を“火の娘”と呼んでいた。
ヒナタは、“火を持たぬ者”にも光を届けようとした。
それが……この街では、忌むべきこととされたんじゃ」
チトは黙って聞いていた。
「火は分け合えない」と言った誰かの声が、脳裏の奥でこだまする。
「……陽を運ぶなんて、そんなきれいごとで、世界が動くわけない」
吐き出すように呟く。
「そうだな。
だが、動かしたものも、確かにあった。
あの頃、わしはまだ子どもだったが……ヒナタの当時の頭領と共に、パンを焼いた記憶がある。
彼女は、食べ物を“火”と呼んでいた」
「……それ、あたしも言ったことある」
カッツがそっと笑う。
「お前があの娘の“火の継ぎ手”か……そうか、そうか……」
長老は目を閉じ、呼吸を整えるようにゆっくり顔を上げた。
「ヒナタは最後にこう言った。
“陽は、自分が届く限りの地に、種を蒔いていく。
そのどれかが火になるなら、それでいい”と。
──わしは、それを聞いて育った。それだけで、十分だった」
沈黙が、再び部屋を包む。
遠くの鐘の音が、白い壁を震わせた気がした。
チトの心の奥で、遠くにあった「名」が、少しだけ近づいてくる。
「……あたしの“火”は、まだ途中です」
立ち上がり、まっすぐに長老の目を見る。
「でも、もしその火が誰かに届くなら、
それは、あの人──ヒナタが蒔いた種が燃えたってことなんでしょうね」
長老は声を出さずに笑った。
部屋を出るとき、チトはふと振り返る。
視線は少しだけ照れくさそうで、それでも確かに真っすぐだった。
「陽を運ぶなんて、あたしにはまだできないけど。
……あんたが語った“ヒナタ”の話、嫌いじゃなかった」
それは、わずかな笑みとともにこぼれた、確かな“赦し”の言葉だった。




