7章: 第7話 「裏切りの名」
セファ街区は、午後の影に染まっていた。
粗い壁土の家並みに風が吹き、どこかで破れたタープがバタついている。
今日の「KATZ’S GRILL」は、屋台を出す予定だった──が、気づけばふたりの足は街の外れへ向かっていた。
「なあ、チト。……こっちに用あったか?」
「……うん、いや……なんとなく、こっちに呼ばれた気がして」
その「呼ばれた先」は、廃墟だった。
教会のようなアーチだけが残り、瓦礫の中に埃まみれの箱が並んでいる。
「なんだここ……?」
「……セファ旧街の記録庫跡。資料で読んだことあって。多分そう…支援団体やギルドの手が入る前、この辺の出来事は全部、手書きで記されてた」
チトの声は、少しだけ熱を帯びていた。
瓦礫の山に腰を下ろしたのは、ひとりの老人だった。
白髪を布で束ね、背筋は丸いが目は鋭い。
石の板に古びたノートを広げて、ゆっくりとペンを走らせていた。
「……あんたたち、誰の紹介で?」
「誰のってわけじゃ。通りすがりだ」
「けど、そっちが“記録を残してる”人なら、少し話を聞きたくてな」
「物好きだな」
男は乾いた声で笑った。
「サミルだ。元はセファ教会の記録係。今はただの過去を掘るただの爺さんさ」
チトが、黙って前に出る。サミルはその姿を、じっと見つめた。
「名は?」
少しだけ間があった。
「……ヒナタ。チト・ヒナタ」
──空気が、止まった。
サミルの筆が止まったまま、ぴくりとも動かない。
「……あのヒナタの名を、ここで?」
「知ってるんですか」
「知っているとも。“ヒナタ”はかつて、太陽を裏切った名として、この街の記録に刻まれている」
サミルの声には、怒りも皮肉もなかった。ただ淡々と、年月とともに固まった事実をなぞるようだった。
「“陽を運ぶ者”が、いつしか陽を囲い、ある日突然、消えた。
火が足りなくなった時代、ヒナタの家は、アリム側の線の向こうへ移動した。セファを見捨てたという記録がある」
「それは……」
チトの声は震えていた。否定ではない。ただ、歪んだ記録と事実の間で、何かが擦れ合っている音がした。
「“ヒナタは太陽を裏切った”。それがこの街の歴史だ。
そして皮肉なことに──今も、あの名前を記した頁だけは、誰も燃やせなかった」
チトは、サミルの前に膝をついた。
積まれた紙束の上に、かすれた筆跡で書かれた名前があった。
「陽を囲った者、ヒナタ家系──」
そこには、自分の腰にぶら下げている、相棒から受け継いだ筈の紋章と同じものが描かれていた。
「……ヒナタは、“光”だけじゃなかった。毒も抱えてた。……その火で、誰かを傷つけたのは、あたしの先祖だ」
サミルが顔を上げる。
「では、お前は本当に“ヒナタ”なのか。
この街でその名を名乗る覚悟があるのか」
チトは、黙ってうなずいた。
「なら──この街で、どう燃えるか、見せてもらおう。火を持ってきた旅人よ」
カッツが、そっとその場に立ち尽くす彼女の肩に手を置いた。
セファの午後の光が、瓦礫の隙間から一筋差し込んで、ふたりを照らしていた。
──ヒナタ。
その名の火が、再び灯されるとしたら。
それは、誰かを照らすためか。それとも、また誰かを焼くためか。
──セファ街区。午後の陽が崩れかけた、記録庫跡の廃墟にて。
崩れた壁の隙間から、砂混じりの風が吹き込んでくる。
ふたりは、割れた陶器と焦げた紙束のなかに座り、老人と話をしていた。
「……それとは別のヒナタの名を、聞いたことがあるんだがな……」
皺だらけの指で、サミル老人が一枚の焼け焦げた羊皮紙をなぞった。
そこには、うっすらと──風に似た筆跡で、確かにその名が残っていた。
『ヒナタ、太陽を越え、火を渡す者』
「この名は、境界を越える火とともにあった。セファにも、アリムにも属さず、灯を運ぶ一族だったのさ。……だが」
老人の言葉に、チトの喉が微かに鳴った。
「やがて、境界に“線”が引かれた。線を引いた奴らは10年かそこらでいなくなったけどな。火種だけは残していったんだ。その後治安維持だの言いながら来たギルドの強硬派がやってきて、効率と支配を持ち込んだ。ヒナタのような“線を越える者”は……最も厄介な存在になったのさ」
カッツが、黙って紙片を拾う。風で欠けた断片に、かすれた文字。
『裏切り者、陽を敵に売った者』
「それは……セファ側からの記録か?」
「そうだな」
老人は笑った。
「だがな、同じ名が、アリムの古い礼拝所にも残っていた」
『迷い火、戻らざる者』
「どちらからも、“信じきれぬ者”として見られた。……それがヒナタの末裔たちの運命だった」
「……それじゃ、あたしの先祖は……」
チトが震える手で、腰の護符を握った。
「火を渡したせいで、どちらからも……」
「──だがな」
サミルは穏やかに言った。
「それが“裏切り”かどうかは、今を生きるお前が決めることだ」
火は、誰かを温めるためにあった。
誰かの腹を満たし、夜を照らし、記憶を繋ぐためにあった。
「どちらのためでもない。ただ、“燃えていたい”という願いだけで」
チトの頬に、陽が一筋かかる。
「名前なんて……燃えてしまえば、灰に戻る。でももし、火がまだ誰かの中で燃えてるなら──それだけで、名は生きてるんだ」
カッツは何も言わず、背中を預けた壁から立ち上がった。
チトの方へ一歩、足を向ける。
「お前の一族の名が、誰かの憎しみの中にあったとしても……それを“灯す側”に戻せるのは、お前しかいない」
チトが頷く。目は赤く、でもその奥は静かに光っていた。
「ありがとう。……少し、震えが止まった」
サミルはふたりを見送りながら、紙に文字を刻んだ。
『陽を越えた名、ふたたび此処に現る』
『ヒナタ、灯を背に旅を続ける者』
そして、夕陽の中。
ふたりは再び「スーク」に向かって歩き出す。
その先に待つのは──もう一つの“ヒナタ”だった。
──火を渡せば、憎まれることもある。
街は、静かだった。
夕暮れの《スーク》を抜け、細く複雑な階段を上がった先。東区と南区の境にある丘の上に、古びた石の廃墟があった。戦争の痕だという。そこに座って、チトはただ、護符を見ていた。
「……ヒナタ」
自分の名前ではない、かつて誰かが背負った“名”。
その名がもたらしたのは、温かいジャイロでも、揺れる火でもない。
“裏切り者”という烙印だった。
──
「店主……じゃなかった。カッツ」
「ん」
チトがぽつりと名を呼ぶ。カッツは、彼女の表情を読み取ろうとしたが、それはまるで雪のように、冷えていた。
「ここに来て、初めて思ったんだ」
「何を?」
「……あたし、たぶん、誰かにとっては“悪人の血”なんだなって」
「それは……違う」
即答しようとして、カッツの言葉が止まった。
違う、と言いたい。
でも、マシェ婆さんも、あの老婆も、そして今日すれ違った男たちも──その目は、確かにヒナタという名を“裏切り”と信じていた。
正しさはひとつじゃない。けれど、彼女に向けられる敵意は、ひとつだった。
「昔さ、ギルドにいた頃」
「……」
「この名前を、知らないふりしてた。自分には関係ないと思ってた」
「……」
「でも違った。この火は……どこまでもついてくる。奪われた誰かの火を、あたしが持ってるのかもしれない」
風が吹く。丘の上には、沈む太陽の赤が差し込んでいた。
──ヒナタは太陽を裏切った。
さっき聞いたその言葉が、火のように胸を焼く。
「チト。あのな」
カッツが膝を折って、彼女と視線を合わせる。
「人は、自分の名前を自分で決められねぇ。でも、その名前に火を灯せるのは、お前自身だろ」
チトは、目を見開いた。
「俺たちは屋台で何をしてる? 火を渡してる。味を届けてる。……でもな、それだけじゃない」
カッツは、彼女の胸元の護符をそっと指した。
「この火を通して、“お前”がどう生きたいかを、誰かに伝えてるんだよ。過去の火に縛られたままか、いまの火で温めるか──決めるのは、お前だ」
「……あんた、急にいいこと言うじゃん」
「だろ?」
「……でも。ほんとに、渡していいのかな。この火を。あたしの火を、誰かに」
カッツは、静かにうなずいた。
「人を照らす火が、いつも歓迎されるとは限らねぇ。だけど……それでも、渡そうとしたお前の火が、誰かを変えるかもしれねぇ」
──その夜。
広場に、ひとつの列ができていた。
屋台《カッツの台所》の前に並ぶ人々は、どこかいつもと違う。子ども、女、若者、兵士──そして、ひとりの初老の男がいた。
白髪混じりのヒゲ。手には包帯。かつての義勇兵か、それとも──。
チトは、列の先にいた男にジャイロを渡そうとした。
「……」
その瞬間、男の瞳がチラリと胸元の護符を見た。
ぎょっとしたように目を見開いたが、何も言わず──ジャイロを受け取り、うなずいた。
「……ありがとう」
ほんのわずかに声が震えていた。だがそれでも、彼は背を向け、ジャイロを両手で包み込んで歩き出した。
チトは、ただ見ていた。
その背中を。
その火を。
──
営業を終えたあと、ふたりで屋台を片付けながら、カッツがぽつりと言う。
「……お前が渡した火は、きっと、何かを残すさ」
「……燃え残ってくれるといいけどね」
「燃え残るものってのはな……案外、忘れたころに灯り続けてたりするもんだ」
「……あたしも、そうなれるかな。名前が……火になる日が来るのかな」
夜の風がふたりの間を抜けていく。
丘の上に灯った屋台の小さな火。
その隣で、護符が静かに、ほのかに揺れていた。
──そして、ある子どもが呟く。
「ヒナタって、ほんとはどんな人だったの?」
その言葉に、答えられる者はいない。
けれど、火はそこにあった。




