表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界屋台〜星とスパイスの地図〜  作者: スパイシ〜しゃけ
第7章 約束の地"エル=ミーラ"編
90/152

7章: 第7話 「裏切りの名」



セファ街区は、午後の影に染まっていた。

粗い壁土の家並みに風が吹き、どこかで破れたタープがバタついている。

今日の「KATZ’S GRILL」は、屋台を出す予定だった──が、気づけばふたりの足は街の外れへ向かっていた。


「なあ、チト。……こっちに用あったか?」

「……うん、いや……なんとなく、こっちに呼ばれた気がして」


その「呼ばれた先」は、廃墟だった。

教会のようなアーチだけが残り、瓦礫の中に埃まみれの箱が並んでいる。


「なんだここ……?」


「……セファ旧街の記録庫跡。資料で読んだことあって。多分そう…支援団体やギルドの手が入る前、この辺の出来事は全部、手書きで記されてた」

チトの声は、少しだけ熱を帯びていた。


瓦礫の山に腰を下ろしたのは、ひとりの老人だった。

白髪を布で束ね、背筋は丸いが目は鋭い。

石の板に古びたノートを広げて、ゆっくりとペンを走らせていた。


「……あんたたち、誰の紹介で?」


「誰のってわけじゃ。通りすがりだ」


「けど、そっちが“記録を残してる”人なら、少し話を聞きたくてな」


「物好きだな」


男は乾いた声で笑った。

「サミルだ。元はセファ教会の記録係。今はただの過去を掘るただの爺さんさ」


チトが、黙って前に出る。サミルはその姿を、じっと見つめた。


「名は?」


少しだけ間があった。


「……ヒナタ。チト・ヒナタ」


──空気が、止まった。


サミルの筆が止まったまま、ぴくりとも動かない。


「……あのヒナタの名を、ここで?」


「知ってるんですか」


「知っているとも。“ヒナタ”はかつて、太陽を裏切った名として、この街の記録に刻まれている」


サミルの声には、怒りも皮肉もなかった。ただ淡々と、年月とともに固まった事実をなぞるようだった。


「“陽を運ぶ者”が、いつしか陽を囲い、ある日突然、消えた。

火が足りなくなった時代、ヒナタの家は、アリム側の線の向こうへ移動した。セファを見捨てたという記録がある」


「それは……」


チトの声は震えていた。否定ではない。ただ、歪んだ記録と事実の間で、何かが擦れ合っている音がした。


「“ヒナタは太陽を裏切った”。それがこの街の歴史だ。

 そして皮肉なことに──今も、あの名前を記した頁だけは、誰も燃やせなかった」


チトは、サミルの前に膝をついた。

積まれた紙束の上に、かすれた筆跡で書かれた名前があった。


「陽を囲った者、ヒナタ家系──」


そこには、自分の腰にぶら下げている、相棒から受け継いだ筈の紋章と同じものが描かれていた。


「……ヒナタは、“光”だけじゃなかった。毒も抱えてた。……その火で、誰かを傷つけたのは、あたしの先祖だ」


サミルが顔を上げる。


「では、お前は本当に“ヒナタ”なのか。

 この街でその名を名乗る覚悟があるのか」


チトは、黙ってうなずいた。


「なら──この街で、どう燃えるか、見せてもらおう。火を持ってきた旅人よ」


カッツが、そっとその場に立ち尽くす彼女の肩に手を置いた。

セファの午後の光が、瓦礫の隙間から一筋差し込んで、ふたりを照らしていた。


──ヒナタ。

その名の火が、再び灯されるとしたら。

それは、誰かを照らすためか。それとも、また誰かを焼くためか。




──セファ街区。午後の陽が崩れかけた、記録庫跡の廃墟にて。


崩れた壁の隙間から、砂混じりの風が吹き込んでくる。

ふたりは、割れた陶器と焦げた紙束のなかに座り、老人と話をしていた。


「……それとは別のヒナタの名を、聞いたことがあるんだがな……」


皺だらけの指で、サミル老人が一枚の焼け焦げた羊皮紙をなぞった。

そこには、うっすらと──風に似た筆跡で、確かにその名が残っていた。


『ヒナタ、太陽を越え、火を渡す者』

「この名は、境界を越える火とともにあった。セファにも、アリムにも属さず、灯を運ぶ一族だったのさ。……だが」


老人の言葉に、チトの喉が微かに鳴った。


「やがて、境界に“線”が引かれた。線を引いた奴らは10年かそこらでいなくなったけどな。火種だけは残していったんだ。その後治安維持だの言いながら来たギルドの強硬派がやってきて、効率と支配を持ち込んだ。ヒナタのような“線を越える者”は……最も厄介な存在になったのさ」


カッツが、黙って紙片を拾う。風で欠けた断片に、かすれた文字。


『裏切り者、陽を敵に売った者』


「それは……セファ側からの記録か?」


「そうだな」


老人は笑った。


「だがな、同じ名が、アリムの古い礼拝所にも残っていた」


『迷い火、戻らざる者』


「どちらからも、“信じきれぬ者”として見られた。……それがヒナタの末裔たちの運命だった」


「……それじゃ、あたしの先祖は……」


チトが震える手で、腰の護符を握った。


「火を渡したせいで、どちらからも……」


「──だがな」


サミルは穏やかに言った。


「それが“裏切り”かどうかは、今を生きるお前が決めることだ」


火は、誰かを温めるためにあった。

誰かの腹を満たし、夜を照らし、記憶を繋ぐためにあった。


「どちらのためでもない。ただ、“燃えていたい”という願いだけで」


チトの頬に、陽が一筋かかる。


「名前なんて……燃えてしまえば、灰に戻る。でももし、火がまだ誰かの中で燃えてるなら──それだけで、名は生きてるんだ」


カッツは何も言わず、背中を預けた壁から立ち上がった。

チトの方へ一歩、足を向ける。


「お前の一族の名が、誰かの憎しみの中にあったとしても……それを“灯す側”に戻せるのは、お前しかいない」


チトが頷く。目は赤く、でもその奥は静かに光っていた。


「ありがとう。……少し、震えが止まった」


サミルはふたりを見送りながら、紙に文字を刻んだ。


『陽を越えた名、ふたたび此処に現る』

『ヒナタ、灯を背に旅を続ける者』


そして、夕陽の中。

ふたりは再び「スーク」に向かって歩き出す。


その先に待つのは──もう一つの“ヒナタ”だった。


──火を渡せば、憎まれることもある。


 


街は、静かだった。

夕暮れの《スーク》を抜け、細く複雑な階段を上がった先。東区と南区の境にある丘の上に、古びた石の廃墟があった。戦争の痕だという。そこに座って、チトはただ、護符を見ていた。


「……ヒナタ」


自分の名前ではない、かつて誰かが背負った“名”。

その名がもたらしたのは、温かいジャイロでも、揺れる火でもない。

“裏切り者”という烙印だった。


 


──


 


「店主……じゃなかった。カッツ」

「ん」


チトがぽつりと名を呼ぶ。カッツは、彼女の表情を読み取ろうとしたが、それはまるで雪のように、冷えていた。


「ここに来て、初めて思ったんだ」

「何を?」


「……あたし、たぶん、誰かにとっては“悪人の血”なんだなって」


「それは……違う」


即答しようとして、カッツの言葉が止まった。


違う、と言いたい。

でも、マシェ婆さんも、あの老婆も、そして今日すれ違った男たちも──その目は、確かにヒナタという名を“裏切り”と信じていた。

正しさはひとつじゃない。けれど、彼女に向けられる敵意は、ひとつだった。


「昔さ、ギルドにいた頃」

「……」


「この名前を、知らないふりしてた。自分には関係ないと思ってた」

「……」


「でも違った。この火は……どこまでもついてくる。奪われた誰かの火を、あたしが持ってるのかもしれない」


風が吹く。丘の上には、沈む太陽の赤が差し込んでいた。


──ヒナタは太陽を裏切った。

さっき聞いたその言葉が、火のように胸を焼く。


 


 


「チト。あのな」

カッツが膝を折って、彼女と視線を合わせる。

「人は、自分の名前を自分で決められねぇ。でも、その名前に火を灯せるのは、お前自身だろ」


チトは、目を見開いた。


「俺たちは屋台で何をしてる? 火を渡してる。味を届けてる。……でもな、それだけじゃない」


カッツは、彼女の胸元の護符をそっと指した。


「この火を通して、“お前”がどう生きたいかを、誰かに伝えてるんだよ。過去の火に縛られたままか、いまの火で温めるか──決めるのは、お前だ」


「……あんた、急にいいこと言うじゃん」


「だろ?」


「……でも。ほんとに、渡していいのかな。この火を。あたしの火を、誰かに」


カッツは、静かにうなずいた。


「人を照らす火が、いつも歓迎されるとは限らねぇ。だけど……それでも、渡そうとしたお前の火が、誰かを変えるかもしれねぇ」


 


 


──その夜。


広場に、ひとつの列ができていた。

屋台《カッツの台所》の前に並ぶ人々は、どこかいつもと違う。子ども、女、若者、兵士──そして、ひとりの初老の男がいた。

白髪混じりのヒゲ。手には包帯。かつての義勇兵か、それとも──。


チトは、列の先にいた男にジャイロを渡そうとした。


「……」


その瞬間、男の瞳がチラリと胸元の護符を見た。

ぎょっとしたように目を見開いたが、何も言わず──ジャイロを受け取り、うなずいた。


「……ありがとう」


ほんのわずかに声が震えていた。だがそれでも、彼は背を向け、ジャイロを両手で包み込んで歩き出した。


チトは、ただ見ていた。


その背中を。

その火を。


 


──


 


営業を終えたあと、ふたりで屋台を片付けながら、カッツがぽつりと言う。


「……お前が渡した火は、きっと、何かを残すさ」


「……燃え残ってくれるといいけどね」


「燃え残るものってのはな……案外、忘れたころに灯り続けてたりするもんだ」


「……あたしも、そうなれるかな。名前が……火になる日が来るのかな」


夜の風がふたりの間を抜けていく。


丘の上に灯った屋台の小さな火。

その隣で、護符が静かに、ほのかに揺れていた。


 


──そして、ある子どもが呟く。

「ヒナタって、ほんとはどんな人だったの?」


その言葉に、答えられる者はいない。

けれど、火はそこにあった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ