1章: 第9話「影の手」
市場の一角で、炭火のぱちぱちと弾ける音と、立ち昇る香辛料の香りが混ざり合っていた。
焼けた肉の脂が鉄板に落ち、香ばしい煙が通りに流れていく。
今日もカッツのジャイロはよく売れ、客の列は途切れなかった。
その様子を、布のフードを深く被った影のような人物が、じっと離れた場所から見つめていた。
夜。
「ギルデンの宿」の片隅、灯りの少ない席で、ふたりは帳簿を広げていた。
焚き火と酒場の笑い声が、かすかに混じって届く。
「なあチト、思ったより売れてんな。経費と材料、少しずつ余裕出てきたぞ。……しっかり利益出てきてる」
「……そのぶん、荷馬の飼料と台車の補強費も考えて」
「はっ、副店長は手厳しいな」
チトは口元をわずかに緩めた。
「売上が上がれば、出ていくものも増えるし……“盗まれる”リスクも増える。それに――」
「それに?」
「……目立ちすぎて、良くないかもしれない」
カッツは眉を寄せた。
「なんかあったか?」
「……いや。気のせい」
だが、その“気のせい”の理由は――チトだけが知っていた。
さっき通りすがった宿屋の壁に、一瞬だけ貼られていた張り紙。
──〈黒衣の刃〉目撃情報求ム。懸賞金三十金貨──
文字は粗く、紙は雨に濡れて端が波打っていた。
そこに描かれた顔つきと雰囲気、腰の武器の位置まで……それは、かつての“自分”にあまりにも似すぎていた。
数日後。
街道沿いの宿場で、ふたりは再び屋台を開いた。
昼下がりの空気の中、耳にひっかかる声があった。
「あそこの黒服の女……ギルデンでも見たぞ」
「……確かに似てるよな、“あの女”に」
小声で交わされる噂話。
チトは表情を変えず、鉄板の影に身を置いていた。
カッツは空気を読むように、焼きの手を止めずに声をかける。
「チト、次の注文入りそうだ。盛り付け頼む」
「……了解」
何でもないやり取り。
けれど、それは“何かから遠ざける”ための自然な芝居だった。
夜。
焚き火の赤い光の中で、チトは短剣を研いでいた。
それはマチェットではない、鋼の細身の刃。
研ぎ石の上で刃が擦れ、細かな火花が瞬く。
「それ……何用?」
カッツが低く尋ねる。
「元々護衛兼用心棒だったから。こういうのは、クセになってるだけ」
「ふーん」
それ以上、何も聞かなかった。
だが、火の赤がチトの瞳に映った瞬間――
カッツはほんのわずかに、冷たい殺気を感じた。
次の瞬間には、もう消えていた。
まるで幻のように。