7章: 第6話 「焼け残る護符」
朝の広場には、昨日とは異なる空気が漂っていた。
歓声も笑顔も消え、代わりに並ぶのは老人たちと、怪我や病に苦しむ者ばかり。咳き込む音が風に混じり、重たい沈黙が地面に染みついている。
灰色の服、うつむいた顔、疲れ切った目。生気はほとんど感じられなかった。
「……これは、空気が違うね」
チトがぽつりと呟いた。
カッツは鉄板に並べた肉に塩を振りながら、小さくうなずいた。
「ああ。南区に支援が届いてねえのかもな。……昨日とは、別の列みたいだ」
その言葉に、チトはもう一度列を見渡す。
そして、ある一点で目を止めた。
列の最後尾、日陰に近い場所。
一人だけ異様な存在感を放つ老婆が立っていた。
背は低く、腰を大きく曲げ、杖をついている。顔の左側には、火傷のような焼け焦げた痕が残り、皮膚にはまるで刻まれたような模様。
腰の帯に結ばれているのは、黒ずんだ布に包まれた、焦げた護符のようなもの。
その瞳だけがやけに鋭く、チトの方をじっと睨んでいる。
無言のまま、老婆の番が来た。
「どうぞ」
チトは、いつも通りの手順でジャイロを手渡そうとする。
その瞬間──
腰の護符が、ぼんやりと青い光を帯びて震えた様に感じた。
同時に、老婆の目からは、くぐもった赤い光がにじみ出る。
「……っ」
チトの動きが止まる。
老婆の目が細くなる。
「その光……まさか、……“ヒナタの印”……」
低く、しゃがれた声だった。
周囲の視線が、じりじりと集まる。
老婆が、ゆっくり口を開いた。
「……ヒナタの血か? この地で、まだ生きとったとはな」
チトは一歩だけ後ろに引いた。胸の内に、鈍い痛みが走る。
老婆はチトの顔を見据えたまま、わずかに声を荒げた。
「その護符──火を奪った一族の証じゃ。名を隠し、炎を盗み、この地を裏切った、裏切り者の……!」
「……火を、奪った……?」
チトの声が、かすれる。
「知らぬとは言わせんぞ。ヒナタの名が、このエル=ミーラでどう刻まれているか……この痕が語っておるわい!」
老婆は顔の焼け跡を指差す。
チトの手が、護符にそっと触れる。
そこに、カッツの声が割り込んだ。
「おい……やめろ。俺たちは旅人だ。ここに着いたのもつい数日前だ。あんた、何なんだ?」
カッツが鉄板から出て、老婆とチトのあいだに立つ。
老婆は、ふう……と小さく息を吐いて、声の調子を戻した。
「なに、あたしはもう……焼け残っただけの灰よ。火種を見に来ただけじゃ」
そして、ひとつ笑みを浮かべ、列に戻っていく。
残されたチトの護符が、なおも静かに揺れていた。
屋台の営業は、午後も続いた。
だがあの老婆とのやり取り以降、チトの手元はどこかぎこちない。
肉を焼く手は止まらず、ジャイロも変わらず旨そうに巻かれていく。それでも、カッツにはわかる。彼女の眼差しが、どこか遠くを見つめていることに。
「……おい、チト。…はぁ…おい副店長!」
そう呼びかけると、チトがはっとして手元を見る。
「……ごめん。今、焦がしそうだった」
「いや、いい」
カッツは静かに肉を受け取りながら、声のトーンを落とす。
「あのばあさんのこと、気にしてるのか」
「……うん」
チトは、ジャイロを巻き終えた蜜蝋紙の端を無意識に撫でながら、低く言う。
「“ヒナタの一族”って、あの人……言ってたよね。あんたも聞いてたでしょ?」
「ああ。はっきり、な」
カッツの目も、護符に向けられた。
チトの護符──草原のオアシスの街で手に入れた青く光るそれは、ただの御守りとしてカッツが託したものだった。
だがいま、それが「一族の印」として名指しされた。
「……私、知らなかった。ヒナタって名前に、そんな意味があるなんて」
チトの声が、わずかに震える。
「私はただ、“誰にも火を奪わせない”って、そのためだけに旅してきたのに。……あの人の目は、私から“火を盗まれた”みたいだった」
カッツは、しばし沈黙した。
屋台の向こうでは、まだ何人かの客が列を作っている。
だがその全員が、老婆の話をどこか耳にしていた。
ざわめきはない。けれど、視線だけが妙に重たい。
「……ヒナタの名に何があったのかは、まだわからない」
カッツは、声を落として言う。
「でもチト、お前が火を奪ったことなんて、一度もないだろ」
「……ギルドにいた頃は…」
「もうそれは終わった話だろう。俺と出会ってからはいつだって、誰かの前で火を灯してきた。寒い夜に、空腹の胃袋に。……誰よりも、“火を分けてきた”じゃないか」
チトのまつ毛が、微かに揺れた。
そして、ほんのわずかに笑ったように見えた。
「……うん。ありがと」
だがその時だった。
列の向こうから、ふたたびあの老婆が、ゆっくりと近づいてきた。
「……まだ残っとったか」
チトが顔を上げた。
「……さっきは、言い過ぎたかもしれんの」
老婆はかすれた声で言いながら、火に手をかざすように屋台の前に立つ。
「ヒナタの一族は、火を奪ったとされておる。けれどの……あのとき、何が“本当”だったか、もうわしにも分からん。セファもアリムも、皆よう焼けて、名ばかりが残った」
チトが息を飲んだ。
「セファと……アリム?」
「昔はの、火を分け合っておったのよ。あの丘の上でな。あれが、何で壊れたか……」
「……“第3の火”が、風を狂わせたんじゃろうか。強すぎる火は、全部を焼き払う。ヒナタも、きっと……それを知っておったんじゃないかのう」
「…申し遅れて悪かった。ヒナタの末裔と旦那。わしの名はマシェ。セファ族の燃え残ったただの灰じゃ。…また会うじゃろう。…色々用心することじゃ」
それだけ言うと、マシェ婆さんは振り返らずに去っていった。
営業を終え、エル=ミーラの広場には再び、夜が訪れた。
星空は深く、あの戦火の残り香がどこか遠くの出来事のようにさえ思えた。
カッツとチトは屋台の片付けをしていた。
鉄器の汚れを落とし、残った野菜を麻袋に移し、炭を掘り返して灰を処理する。
何も言わずとも、ふたりの動きは息が合っていた。
だがふと、チトが護符を見下ろしたまま動きを止める。
淡く光るその護符──青白い揺らめきが、夜風に小さく震えていた。
「……ねえ」
チトがぽつりと口を開いた。
「名前って……焼けても、残るものなのかな」
その声は、小さくも凛としていた。
震えではなく、問いかけとしての強さがあった。
「たとえば、“ヒナタ”って名前が、誰かに憎まれて。誰かに恨まれて。それでも、それを名乗ることって……意味があるのかな」
カッツは少し間を置き、焚き火の残り火に目をやった。
「意味があるかどうかは、きっと……その火が何を照らすかだと思う」
彼は、そっと答えた。
「名前は……消すこともできるし、背負うこともできる。でもチト、お前がこの護符を“ただの御守り”だと思っていたなら──」
そこまで言いかけて、カッツは笑う。
「……いや、もうただの御守りじゃないか。お前にとっては」
チトは少し目を伏せた。けれどその表情には、もう迷いは少なかった。
「……うん。たしかに、違う。あたしの“名前”とつながってたって分かった以上、これは……見過ごせない」
チトは護符を握りしめ、夜空を見上げる。
「燃えても、焼けても……それでも残るものがあるなら、私はそれを見届けたい」
彼女の声には、迷いの代わりに決意が灯っていた。
「私の一族が、ここで何をしたのか。何を残して、どうして……こんなふうに、誰かから恨まれるようになってしまったのか」
「……」
「それを知らずに去るなんて、できない」
しばらくの沈黙。
そしてカッツが、静かに頷く。
「……無理はするなよ」
カッツの言葉は、優しくも鋭かった。
「今回は本当に、命が関わる可能性がある。火をつけすぎれば、また誰かを燃やしかねない。俺たちだって巻き込まれる」
「……うん。でも、だからこそ」
チトは言った。
「だからこそ、ちゃんとやりたい。ここで灯す火が、焼くだけのものじゃないって──それを伝えたい」
風が吹いた。
小さな護符が、ふわりと舞い上がるように揺れ、チトの腰元で鳴った。
青い光が、ひとしずく。
星空のきらめきと重なるように、夜の空へと溶けていった。
どこか遠くで、マシェ婆さんが誰かにスープを分けている声がしたような気がした。
あの時の憤怒は消えて、老女の声はただ、火のそばのぬくもりだった。
──焼け残ったものは、まだ灰の中で息をしている。
それが“名”なのか、“赦し”なのか、まだわからない。
けれどチトは、その名を捨てないと決めた。
だから今夜も、灯す。
ひとつだけの、小さな火を。




