7章: 第3話 「祈りの前に」
夜明け前。空の色はまだ群青のままで、山際にわずかに赤が差す。
グリル・ノマド号の横に設営された小さなテント。その中で、カッツはひとり目を覚ましていた。寝袋を静かに抜け出し、上着を羽織ると、隣で寝息を立てるチトに目をやった。
その腰には、青く光る護符が揺れていた。
薄明かりの中でも、それは微かに光を放ち、チトの呼吸とともにわずかに揺れていた。
「……お前、変わったな」
つぶやいても、チトが起きる気配はない。
いや、もうずっと前から、彼女は変わっていた。気づいていなかったのは、きっと自分の方だ。
護符は、彼女自身の手で、旅の中で形作ったものだ。自分はただ手渡したに過ぎない。
あの子はもう、誰かの背中を追ってるだけじゃない。
自分で、歩く場所を選んでる。
カッツは静かに立ち上がり、テントを出た。
外の空気は冷たく澄んでいた。
息が白く凍るなか、彼はひとりで焚き火を起こし、小鍋に湯を張った。水に溶かした乾燥ミルクと塩を加えて、朝のスープをゆっくり温める。
──じゃあ、俺はどうだ。
焚き火の灯を見つめながら、カッツは思った。
「チトに何かを伝えてたつもりだった。でも……今はもう」
言葉にはせず、鍋の中に落ちる湯気に紛らせた。
渡す側でいたいと思っていた。
導くようなフリをして、それに甘えていた。
けれど本当は、ずっと彼女に引っ張られてきたんじゃないのか?
その問いは、まだ火が灯る前の心に、ゆっくり沈んでいった。
テントの布が、ばさりと揺れた。
「……あれ、カッツ?」
チトが寝ぼけ眼で顔を出す。
乱れた髪のまま、朝の寒気に少し震えながら、彼女は辺りを見渡した。
テントのすぐ前に、直立して待つカッツの姿があった。
火を前に立ち尽くすその背中を見て、チトは一瞬、目を細めた。
「……なに。朝から張り込み?」
「いや……お前に、話したいことがあってな」
カッツは振り返り、真っ直ぐにチトを見つめた。
彼女は焚き火のそばまで歩いてきて、いつも通りの無表情で腰を下ろす。
だが、ほんの少しだけ、耳の先が赤くなっているのに気づいた。
「何よ、あらたまって」
「エル=ミーラに行く理由を、ちゃんと話すって言っただろ。……今、話したい」
チトは薪をひとつ火に足して、黙って聞く体勢に入る。
「……この旅でいろんなもん見てきた。焼けた街、笑いながら盗むやつ、誰かの火を踏みつける連中……。だけど、どこにいても、火を渡すことで繋がれる瞬間があった。そう思えたんだ」
チトは火を見つめながら、そっと頷いた。
「でも、きっとあそこは違う。エル=ミーラは、どっちの火も届いてない。誰かが焚いた火を壊して、それで終わり。火が“意味を持ててない”場所だと思った。いや、悪く言えば燻っているって感じか」
カッツは静かに息を吐いた。
「……そんな場所に、お前と一緒に俺たちの火を運んでみたいんだ」
チトの瞳が、少しだけ揺れた。
「別に、救いたいとか、そんなデカいことじゃない。ただ、たったひとつでいい。あの街の誰かに、俺たちの火を、届けたいんだ。誰かの心に、ひとつでもいい。火を灯したい。…お前とじゃないとできないんだ」
「……ふーん」
チトは小さく返事をして、それ以上は何も言わなかった。
けれどその目は、焚き火ではなく、カッツの方をまっすぐ見ていた。
カッツの言葉は、チトの中に確かに届いていた。
静かに、朝の空が明るくなっていく。
チトは、少しだけ俯き──口の端を上げた。
「……ばか」
「……あ?」
「そういうの……ちゃんと最初に言いなさいよ」
チトの手が、腰の護符に触れる。
「じゃあ、行こうか。エル=ミーラへ。火を運びに」
「──ああ」
ふたりは並び、歩き出した。
朝の光の中、グリル・ノマド号の車輪が静かに回る。
その先には、ギルドの義勇隊と、まだ誰も知らない“火の灯らぬ街”が待っている。
*
午前、峠の中腹の合流地点。
ギルドの義勇隊──その若き隊長、リフがふたりを迎えた。細身の体に、手入れの行き届いた外套。だがその目だけは、年齢よりもずっと重たいものを見てきた色をしていた。
「おふたりが、“KATZ’S GRILL”のご一行ですね」
「屋台の名までご存知とは。ギルドの情報網、さすがだ」
「俺個人の趣味ですよ。東方のスパイス料理が好物なんです」
リフは、気さくな笑みで肩をすくめた。
「今回は“旅人支援”の特例で通します。街に入っても、こちらの指示には従ってください」
「了解だ。ルールは守る」
「……ただし」
リフの表情が一瞬、真顔になる。
「火は扱うな、と言いたいところですが──あなたたちの火は、見てみたい」
チトが眉をわずかに動かした。リフの言葉には、好奇心以上の、なにかの“願い”が滲んでいた。
道中、乾いた丘を下る細道を行く。
屋台はリフたちの支援車両に括り付けて牽引され、チトとカッツは並んで歩いていた。
「……チト」
「なに」
「お前、前に言ったな。誰かに名前を覚えてもらえるだけで、生きてていいって」
「……うん」
「それを聞いて、俺も考えたんだ」
カッツは空を見た。高く、風の音だけが通り抜ける。
「俺は、ただ“うまいもん”を届けたいんじゃない。誰かの人生の、ほんの一瞬でも温もりを刻めたら、それでいい」
「……それ、なんか詩的すぎない?」
「はは。似合わねえか」
「……ううん、いいと思う。そういうの、あそこの人たちにはきっと、届く」
そして、夕刻。
谷を越え、土壁の門が見えてきた。
瓦礫混じりの斜面を下り、厳重な関門が立ちはだかる。
周囲には、供給を待つキャラバン、支援物資、行き場を失った人々の列──
火の灯らぬ街、エル=ミーラが、ようやくその姿を現した。
リフが振り返り、ふたりに静かに言った。
「ようこそ、約束の地へ」




