7章: 第2話 「火を運ぶ資格」
火はまだ、小さく灯っていた。
ふたりは、互いに背を向けたまま、同じ火を見つめている。
チトは黙って、革の水筒を握っていた。カッツはその反対側で、無言のまま片膝を立てていた。
火がぱちりと弾けた瞬間──
カッツの声が、低く落ちた。
「……チトはさ、本当は行きたくないのか?」
沈黙。
チトは答えず、代わりに小さく息を吐く。
火の音が、その溝を覆うように静かに鳴っていた。
「チト、お前……」
「行きたくない、じゃない」
ようやく、チトが口を開いた。
「……“あたしたち”が行く意味を、まだあんたの口から聞いてない」
その声は、冷たい風のようだった。
焚き火の揺らぎが、その言葉の硬さを柔らげることはなかった。
カッツはうつむき、火に手をかざした。
長い指先が、炎の向こうにゆらりと伸びる。
「俺は……うまい飯を届けたい。ただ、それだけだ」
「違う。そういう話じゃないって、言ってる」
チトの声が、わずかに震えた。
「そこにいる“誰か”が、食って、救われるならって。
あんた、そうやって、自分に酔ってない?」
「……酔ってねぇよ」
「なら、言って。
エル=ミーラに行く理由を。“何を渡したいか”じゃなくて、“どうしてあんたが行かなきゃいけないのか”」
カッツは視線をあげた。
焚き火の向こうにいるチトの顔──そこにある怒りと、涙の気配を。
「……あそこに、まだ火が残ってる気がしたんだ。誰かが手を伸ばして、凍えた指先で、かすかに求めてるような……
そんな気がして。なら、俺たちの火で温められるかもしれないって。
そんな“気がした”だけだよ」
「……ただの“気がした”で、行くの?」
「火ってのは、理屈じゃねえだろ」
言葉を重ねるたびに、カッツの語気も強まっていた。
「正義がどうとか、ギルドがどうとか、あの土地の過去とか未来とか……
それを背負ってない俺だからこそ、運べる火があるって……そう思ってる。
その火が、誰かの腹を満たして、少しでも心を温めて。解きほぐせるなら、それで十分だって思ってる!」
火が、ぱちんと大きく鳴った。
まるでその言葉に反応するように。
チトは立ち上がり、カッツに向き直った。
「“十分”なんかじゃない!」
チトの声が、夜に響いた。
この旅の中で、初めてとも言えるほどの、激しい怒りだった。
「“あたし”が一緒に行く理由は、そんな生ぬるい話じゃない。
あそこに何があったか、どんな火が消されてきたか……
あたしは“あの地図”を見てる。管理区域って、燃え残った区画に番号が振られて、効率よく“制圧”するための……
火じゃない。焼却だって、あたしは、あれを見て思ったんだよ!」
焚き火が揺れる。チトの肩も、わずかに震えていた。
「だから……だからこそ、怖いんだ。
あんたの火が、またあそこの誰かの火を奪うことになるんじゃないかって……
“火を渡す”って言葉の裏で、何かを見落としてるんじゃないかって……!」
カッツは立ち上がった。
ふたりは、焚き火を挟んで向かい合う。
どちらの目も、真っすぐだった。
「……分かった」
カッツは、静かに言った。
「それでも俺は、“届けに行きたい”って思ってる。
何かを救えるなんて思ってない。ただ……この手にある火を、誰かに手渡すことだけは、できる気がするんだ」
チトの視線が揺れた。
「だから一晩くれ。明日の朝までに、ちゃんと考えて話す。
“お前と一緒に行きたい”理由を、火じゃない言葉で、チトに伝える。……それで決めてくれ」
チトはしばらく目を伏せていたが、やがてこくりと頷いた。
「……分かった。
聞くよ。ちゃんと。
でもそれまでは……軽く扱わないで。エル=ミーラも、火も、あたしも」
「……ああ、誓うよ」
ふたりはようやく、焚き火の前に肩を並べて座った。
すれ違い、ぶつかり、言葉にして、ようやく向き合えた背中と背中。
その夜の火は、少しだけ高くなっていた。
──誰かに渡すためではなく、
まず、ふたりの心に灯すために。




