6章: 第14話 「ひとときの観光」
出発する、と言った翌朝。
ふたりはまだ、宿を出ていなかった。
「……なんだかんだで、まだ引っ張るんだね」
チトがやや呆れ気味に言うと、カッツは屋台の布カバーを手で払いながら苦笑する。
「なんだか、もう少しだけ……この街の“匂い”を覚えておきたくてな」
「それ、屋台が言ってたらちょっと怖いけど」
「いや、マジで言ってそうだよ、こいつ──昨日の仕込みも上出来だったって」
冗談交じりのやりとりに、風がふわりと通り抜けた。
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今日のふたりは、荷物も屋台も置いての身軽な散策。
市場通りをゆっくり歩き、異国の陶器や織物、香料の店に立ち寄る。
チトは、目についた緑色の布飾りをじっと見つめていた。
「なにか、気になるのか?」
「……似てるの。子供の頃に見た、縁結び守りに」
その言葉に、カッツは一瞬だけ表情を止めた。
けれど、チトはもう次の露店へ歩き出している。
「行こ、冷めちゃう前に」
「ん、冷めるって……なにが?」
「食べ歩きの話でしょ?」
「そっちかよ」
広場の一角では、小さな屋台がナンに練り香辛料を塗って焼いていた。
炭火の上で膨らんだ生地が、音もなく割れていく。
その香りはどこか……地球の、インドの屋台に似ていた。
「シャハル・ナールって、地球のあれこれを思い出させるな」
カッツがぼそりと呟く。
「でもここ、"地球"じゃないんでしょ?」
「違う。でも──なんでだろうな。たまに思うんだ。違う世界のはずなのに、俺が旅をしてた頃の、あの時見た皿とか、香辛料とか……繋がってる気がする」
「……うん」
チトは小さく頷く。それは同意というより、“知っている”という頷きだった。
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日も傾きかけた頃、ふたりは街の外れにある高台に登っていた。
古い礼拝堂の跡地。石造りの柱が数本だけ、崩れかけて立っている。
「ここから見えるあれが、“西の回廊”だって。明日行くなら、あっち」
「ほんとだ。……地平線が霞んでるな」
「乾燥地帯だもん。次は、またちょっと違う旅になりそう」
チトの声が、少しだけ不安を含んでいた。
それを察してか、カッツは鞄から古びた地図を取り出す。
遊牧民のキャラバンからもらった「交易路の果ての地図」──
「どこかって、まだ分かんねえよ。でもさ」
カッツは、地図の端に書かれていた“GYRO”の落書きを指差した。
「この地図、俺たちの未来も書いてある気がしてな」
チトは苦笑する。
「落書きでしょ、それ」
「いや、これは“予言”だ」
「……バカみたい」
そう言って、チトは空を見上げた。
夕日が沈みかけ、王都の屋根の影がゆっくりと伸びていく。
それはまるで、何かを見送るようだった。
「ねえ、カッツ」
「ん?」
「“ジャイロ”って、国によって名前が違うんだよね」
「そうだな。ギュロ、ドネル、シャワルマ……いろいろある」
「じゃあ……それを全部たどったら、どこかで“最初のジャイロ”に出会えると思う?」
カッツは答えず、ただ風の向こうを見つめた。
「だったらさ。そこまで行ってみよ。あたしたちの屋台で」
「……ああ」
ふたりの背後で、夕日が地平線に触れた。
もうすぐ、夜がやってくる。
でもそれは、終わりの合図じゃない。
「明日、出よう。今度こそ」
「うん」
今日という一日が、旅を繋ぐ“橋”になった。
言葉にしきれない感情も、不安も、期待も──すべてを乗せて。




