1章: 第8話「誇りと、罠」
夜の「ギルデンの宿」は、焚き火の赤い光と酒の笑い声に包まれていた。
旅人たちが杯を打ち鳴らし、酒の吐息と情報を交わす。
焼きパンの香ばしい匂いと、羊の煮込みの湯気が夜気に混ざって漂っている。
荷台の裏では、カッツが鉄板の煤を丁寧にこそぎ落としていた。
金属の擦れる音が、喧噪の中でかすかに響く。
一方チトは、焚き火のそばで膝を抱え、薄い革表紙のノートに何かを書き込んでいる。
「記録か?」
「うん。今日売れた数、材料の残り、あと気になった客の特徴」
「さすが副店長。仕事が細かい」
「うるさい。……でも、こうやって記録を残しておけば、いつか“あたしたちの味”になると思って」
「……あたしたち、か」
自分で口にして、チトはわずかに目を逸らす。
「……見んなよ。それより、あんた髭伸びすぎ。ちゃんと手入れしろ」
――そのときだった。
宿の敷地に、場違いな影が現れた。
黒いマントに銀の飾りを額に付けた男たち。ギルドの査察官――「監査使」だ。
彼らは“市で売られるもの”に対し、品質と出所を調査する権限を持つ。
噂一つで、営業停止も珍しくない。
「焼き物屋。貴殿、使用している香辛料の産地を示す証明はあるか?」
「は?」
カッツは鉄板の前で固まった。チトが間に入る。
「“異邦の香り”と噂が立った料理は、危険視されることがある。……あんたは知らないよね」
「……なるほど。誰かが仕掛けたな」
「だろうね」
監査使が冷たく告げる。
「証明書がないなら、その香辛料は没収。屋台営業も一時停止だ」
カッツは眉をひそめ……それから笑った。
「そりゃ困ったな。けどよ――“香り”は証明できなくても、“味”は証明できるぜ。これで安心できるってわけだ」
鉄板の上で温め直した包みを、彼らに差し出す。
「……試してくれよ」
監査使は一瞬ためらい、それから包みを受け取った。
ひと口、ふた口。
外のパンは香ばしく、肉の脂と香辛料が舌に広がる。
焚き火の音が、妙に近く聞こえた。
「……これは、“過ぎた味”ではないな。むしろ懐かしい。誰かの家庭の味だ」
監査使はほんのわずか目を見開き、そして、
「……ふん。今回は見逃そう。“次”があるなら、書類を揃えておけ」
そう言い残して去っていった。
――火のそばで、チトがぽつりとこぼす。
「……たぶん、仕掛けたのはコルベか、その周辺だね」
「助かったが、見逃したのは……“味”のおかげか?」
「それだけじゃない。……カッツ、“信用”ができてきてる。あんたは火を灯してる。誰かは見てるし、受け取ってる」
カッツは焚き火を見つめ、小さく頷いた。
「その“嘘がつけない場所”ってのが、屋台でよかったよ」
「……ねえカッツ。あんた、昔の屋台でも、こんな風に人と向き合ってた?」
「……いや」
焚き火がパチリと音を立てる。
「どっちかっていうと、ただ売ってた。“うまけりゃ売れる”って、それだけだった」
「今は?」
「今は――うまいって言ってもらうのが、うれしい。知らなかったものを、はじめて体験する人の……キラキラした顔が響くんだ」
チトはそれを聞き、なぜか目を伏せた。
火の光に照らされた横顔が、少しだけ寂しげに見えた。
「……じゃあ、もっと売れ。あたしのぶんも、うまいって言わせろ」
「へいへい、副店長」
けれど、チトの視線は夜の草原の彼方。
誰にも届かない、記憶の奥へと向けられていた。