6章: 第13話 「旅の整備」
朝の空気は、昨夜の熱気を忘れたように澄んでいた。
王都の北区にある宿の前で、チトとカッツは小さく伸びをする。
彼らの背後には、静かに佇む「グリル・ノマド号」。
草原を越え、砂丘を抜け、今は石畳の街路にその車輪を停めている。
「……今日は、出る?」
そう尋ねたのはチトだった。
声は低く、けれどどこか、迷いを抜けたあとの静けさを含んでいる。
「出よう。準備は、昨日のうちにだいたい済ませた」
カッツはそう答えると、屋台の側面に手をやり、道具の点検を始めた。
炭火コンロの煤、ナイフの刃こぼれ、折り畳み棚の蝶番の緩み──
目に見えるものすべてを確かめながら、旅人の顔になっていく。
「……この街、意外と好きだったかも」
チトがつぶやく。
それは彼女なりの、さよならの代わり。
「俺もだ。あったかかったな。出会いも、料理も、言葉も──」
カッツは言葉を切って、空を見上げた。
雲ひとつない高い空。
風は穏やかで、まだどこか果樹園の香りを引きずっている。
屋台の荷台から、チトが自分の荷物を下ろす。
その中に、こっそりと詰めた小瓶がひとつ。
それは、果樹園でカッツがもらった甘いザクロの蜜酒。
「禁酒国家」であるこの国では違法な品だが、
彼女はカッツからもらったそれを、ただそっと自分のバッグに忍ばせた。
(……また、一緒に飲める日が来たら)
そんな未来を、彼女は誰にも言わずに想像していた。
⸻
屋台の下に潜り込んで、最後の車輪点検をしていたカッツがふと手を止めた。
「チト」
「なに?」
「行き先、決める前に……もう一度だけ聞くけど、ほんとにこのまま、俺と一緒でいいか?」
静かな問いだった。
ふざけもせず、飾り気もない、彼らしい真っ直ぐな声。
チトは、風で揺れるスカートの裾を押さえながら、彼を見下ろした。
ふっと、笑う。ほんの少しだけ、照れたように。
「今さら置いてくの? あんたってそんなに冷たい人だった?」
「いや、そうじゃない。ただ──」
「だったらもう、黙って引いて。道があるなら、進むだけよ」
その言葉に、カッツは静かに頷いた。
屋台の取っ手に手をかけ、深く息を吸い込む。
遠く、広場の方角から風が吹いてくる。
黄色い花の香りが、一瞬だけ鼻先をくすぐった。
「……じゃあ、行こうか。俺たちの屋台で」
「うん」
ふたりの影が、朝の光に伸びていく。
踏みしめた石畳には、しっかりと轍の跡が残っていた。
その痕跡が、王都での旅の証であり──
次の物語への、ささやかな起点だった。




