6章: 第9話 「駆けてくる者」
日は西に傾き、シャハル・ナールの空が茜に染まりはじめた。
カッツは果樹園の男たちと別れ、再び門前の道を歩いていた。
背負い袋の中には、焼き終えた肉の残りと、小さな果実酒の壜。
そして少しだけ重たくなった足取りと――心。
「……やっぱり言わなきゃダメだったか?」
そうつぶやいた声は、すこしだけ迷っていた。
チトには「飲酒が違法」という事実も、「女の飲酒が重罪」だということも話していない。
昨夜、泣かせたこと。
守れなかったこと。
それをまた繰り返すかもしれないという、微かな後悔が喉元で燻っていた。
けれど。
「それでも……あいつに飲ませた酒は、うまかったはずなんだ」
そう、信じていた。
──そして、その頃。
宿の食堂では、チトが今にも椅子から立ち上がろうとしていた。
夕方になっても、カッツの姿は戻らなかった。
不安と、怒りと、少しの焦りが胸をぐるぐると駆け回っていた。
(なんで……なんで、あの人は……!)
午前中に宿の女将が「門の外の果樹園に行ったらしい」と話してくれたが、場所の特定はできなかった。
今から出ようか、探しに行こうか、逡巡している――そんな時。
「――チトー!」
その声は、夕陽の中から飛び込んできた。
「……え?」
戸を開けたのは、果樹園の仲間たちを引き連れたカッツだった。
肩に一升瓶、腕には果実の袋、口元には――あのいつもの、申し訳なさそうな、でもどこか笑っている顔。
「や、帰ったぞ」
「……カッツっ……!」
チトは言葉を失ったまま立ち上がる。
そして、あっという間に駆け寄り――カッツの胸元を両手でぐいっと掴んだ。
「ばか……!」
その一言に、食堂の空気がぴたりと止まる。
「なによ、何も言わずにいなくなって! あたしがどれだけ……!」
「悪かった」
カッツの声は、いつもより低く、静かだった。
「酒のことも、果樹園のことも、隠してて悪かった。でもな」
「……でも?」
「お前に、あの時だけは飲ませたかったんだ。チト。
あれは……“うまかった”ろ?」
沈黙。
チトの手が、まだ彼の胸元を掴んでいる。
その指先が、すこしだけ震えている。
「……うまかったわよ、バカ」
そして――涙が、ひとしずく、彼女の頬を伝った。
その夜。
果樹園の一団と、チトとカッツ、そして宿の食堂を巻き込んで、ささやかな宴が開かれることになる。
でもその前に――
2人だけで、少しだけ静かに話をする時間が、必要だった。




