表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界屋台〜星とスパイスの地図〜  作者: スパイシ〜しゃけ
第6章 王都シャハル・ナール編
74/152

6章: 第8話 「ひとりの時間」


「おい、こっちに来な!」


粗い声に振り返ると、先頭を歩いていた果樹園主の男が、大きく手招きしていた。

カッツはしぶしぶ脚を進める。背中には重たい果物籠。既に2時間以上、日差しの下で収穫を続けている。ザクロに似た果実ルフルは見た目以上に重く、茂みの中で腕を伸ばす作業は想像以上にしんどかった。


「次はこっちの列だ。まだまだ終わらねぇぞ、兄さんよ」

「……名前で呼んでくれ。『カッツ』だ」

「ほう? ずいぶん気さくな奴だな」

「気さくじゃない。せめて、働きに対して敬意を払ってくれよ」


男たちは一瞬だけ静かになったが、すぐににやりと笑った。


「いい根性してるじゃねぇか、気に入ったぞ。よし、そこの木はうちでも甘いやつだ。責任持って頼むぜ」


 


ルフルの果樹園バーグは、王都シャハル・ナールの南西、門の外れに広がる草原地帯にあった。

ゆるやかな丘が連なる場所に、放射状に広がる果樹の列。所々で草を刈る音と、枝を揺らす音、木箱に果実が詰められる音が重なっている。


この土地の男たちは、裏社会とは無縁の「陽気で粗野な庶民」であり、それでも秩序を守りながら生きている者たちだった。

禁酒法という強制的な締め付けのなかで、彼らは“権力の目”をくぐって、自分たちのやり方で自由を守っていた。


「こんな状況でも笑って働いてるあんたらは、ちょっとカッコいいな」

そう言ったカッツに、果樹園主は鼻で笑った。


「俺らはただ、“生きてる”だけだ。偉そうなもんじゃねぇよ」

「そうだとしても、見習う価値はある。……俺の相棒も、そう思ってくれると思う」


 


その頃──。


「……もう、ほんとにどこ行ったのよ、あいつ……」


やはりカッツの気配がない。

護符の光も心なしか、ない。静かな部屋に、チトはぽつんと取り残されていた。


自分で「店主」と呼ばなくなってから、どれくらい経っただろう。

彼をただの雇い主でもなく、護衛として守るべき存在でもなく、1人の人間として意識するようになってから、距離の取り方に迷うことが多くなった。


「……寂しい、なんて……」


やがて、チトは体を起こして、顔を洗い、服を整えた。

足取りはまだ重いが、それでも1階の食堂へと下りていく。

そこで出された朝食は、ナンと、ピンク色のバラのジャム、白くて塩気の強いチーズ、そしてミントやバジル入りのオムレツだった。


一口、ナンをちぎって、オムレツと一緒に口に運ぶ。


「……ん……」


スパイスの香り、焼きたての香ばしさ、口の中にひろがるハーブの余韻。

ほんの一瞬、目の奥に浮かんだのは──手際よくジャイロを巻いていたカッツの横顔だった。


「……また、変なこと考えてる……」


思わず目を伏せる。

胸の奥に湧いた感情は、空腹でも、焦りでも、怒りでもなかった。


(……あたし、あの人のこと……)


チトは、黙ってナンをもう一口ちぎった。

答えはまだ、言葉にならなかった。


──


昼下がりの光が、シャハル・ナールの街をゆっくりと温めはじめていた。

静かな宿の一室で、チトはぼんやりと窓辺に腰をかけていた。


彼女の視線は、何かを追うでもなく、ただ遠くを見つめている。

顔色はまだ少し悪い。二日酔いの名残と、体にこびりついた眠気と、そして――


「……戻ってこない」


短く呟いた声に、少しだけ寂しさがにじんでいた。


カッツの荷物はない。通行手形も、あの人の匂いすら、部屋の中からは消えていた。

それだけで、こんなに静かだなんて。


(ちょっと前までなら……気にも留めなかったのに)


思えば、かつての自分は、ひとりで動いて、ひとりで寝て、ひとりで笑っていた。

誰かを待つなんてこと、したことがなかった。


でも今は違う。

ほんの少し遅く目が覚めただけで、胸のどこかがざわめく。


「……バカ、心配させてるんじゃないわよ」


ベッドのシーツが、くしゃくしゃになったまま広がっていた。

昨夜、眠る直前までそこでふたりが言葉を交わしていた記憶が、ぼんやりと残っている。


(怒って、泣いて、謝られて……それだけだったのに)


なぜか、それがずっと残っている。


彼女はふと、腰の護符に手を添えた。

淡く青く光るそれは、チトの中にある微かな“ぬくもり”の象徴のようだった。


「……変ね、あたし」


誰にともなく、そう言って笑った。


その笑顔は、誰も見ていない場所でこっそり咲く、春の花のようだった。



昼を過ぎた頃。

シャハル・ナール郊外、《バーグ》の果樹園では、炭火の香りがゆらゆらと空気を満たし始めていた。


「……こりゃあ、いい火になってきたな」

「おう。木の芯が赤く染まったら合図だ。あとは任せたぜ、“カッツ屋”!」


木を集めていた男たちが笑い声を上げる。

果樹園の隅、収穫を終えた作業小屋の裏手では、焚き火を囲んだ即席の宴会が始まろうとしていた。


 


事の始まりは、午前中の収穫作業が一段落した頃だった。


「なあ兄ちゃん、腹減ってねぇか?」

果樹園の主であり、密造酒の作り手でもある男――ムルダンが、不意にそう口にした。


「少しな。ナンが恋しいってほどじゃないが」

「へっへ、ならちょいと楽しませてやるよ」


そう言うとムルダンは、物置から大きな金串と干し肉、香草を取り出した。

「こいつで肉を焼け。あんた屋台やってるんだって?だから、“あんたの腕”を、見てみてぇんだ」


 


こうして、焚き火のまわりに集まった男たちは、カッツの手際に興味津々だった。


串打ちしたのは、羊肉の切り身と脂身、それからハーブに漬け込まれた臓物。

あちこちから「酒がほしいなあ」なんてぼやきが飛ぶ。


「こっちは……酒の代わりに、“香りで酔わせる”のさ」


カッツはそう言って、炭火の上に金串をゆっくりと回した。

時折、串を傾けては、滴る脂を火に落とし、煙を香草の束で扇ぐ。


「おおっ、香りが……!」


「なんだこれ……酒も飲んでねぇのに、体があったまってきたぞ……!」


男たちは目を丸くしていた。


 


「香りは火で開く。だけど焦げさせたら負け。肉はな、“外が騒いでても、静かに仕上げる”のが大事なんだ」


カッツのその言葉に、誰かが「詩人かよ」と笑ったが、目は真剣そのものだった。


やがて、肉の焼ける音とともに、香ばしい煙が風に乗って果樹園を包み始めた。


 


「兄ちゃん、名前……本当になんてんだ?」


「カッツ。屋号は“グリル・ノマド”」


「グリル・ノマドか……いい名だ」


「ありがとう。……ただの、屋台だけどな」


ムルダンは黙って串を噛みしめた。

肉はほろりと崩れ、ハーブとスパイスが火の中で熟し、舌の奥でひとつになる。


「……くそ、うめぇ……!」


 


そのあとは、流れるように宴が続いた。


誰かが笛を吹き、誰かが踊りだす。

果樹園の片隅に設けられた石の座台では、酒の代わりに果実の発酵茶が回し飲みされ、男たちは笑い、騒いで、肩を叩き合った。


その輪の中に、違和感なく溶け込んでいるひとりのよそ者。


「……ほんと、信じられねぇよな」

「昨日来たばかりだってのに、まるで昔からいたみてぇな顔してさ」

「なんかこう……あいつの作るもん食うと、昔のこととか思い出すんだよな……」


 


日が傾く頃。


カッツは焚き火の前で一息ついていた。

指先には、焼き焦げた木の香りがまだ残っていた。


「……チト、今ごろどうしてるかな」


ぼそりとつぶやくその声は、誰にも届かない。


けれど、彼の手のひらの温度には、確かにまだ、昨日の夜に握られた――涙の重みが残っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ