6章: 第8話 「ひとりの時間」
「おい、こっちに来な!」
粗い声に振り返ると、先頭を歩いていた果樹園主の男が、大きく手招きしていた。
カッツはしぶしぶ脚を進める。背中には重たい果物籠。既に2時間以上、日差しの下で収穫を続けている。ザクロに似た果実は見た目以上に重く、茂みの中で腕を伸ばす作業は想像以上にしんどかった。
「次はこっちの列だ。まだまだ終わらねぇぞ、兄さんよ」
「……名前で呼んでくれ。『カッツ』だ」
「ほう? ずいぶん気さくな奴だな」
「気さくじゃない。せめて、働きに対して敬意を払ってくれよ」
男たちは一瞬だけ静かになったが、すぐににやりと笑った。
「いい根性してるじゃねぇか、気に入ったぞ。よし、そこの木はうちでも甘いやつだ。責任持って頼むぜ」
ルフルの果樹園は、王都シャハル・ナールの南西、門の外れに広がる草原地帯にあった。
ゆるやかな丘が連なる場所に、放射状に広がる果樹の列。所々で草を刈る音と、枝を揺らす音、木箱に果実が詰められる音が重なっている。
この土地の男たちは、裏社会とは無縁の「陽気で粗野な庶民」であり、それでも秩序を守りながら生きている者たちだった。
禁酒法という強制的な締め付けのなかで、彼らは“権力の目”をくぐって、自分たちのやり方で自由を守っていた。
「こんな状況でも笑って働いてるあんたらは、ちょっとカッコいいな」
そう言ったカッツに、果樹園主は鼻で笑った。
「俺らはただ、“生きてる”だけだ。偉そうなもんじゃねぇよ」
「そうだとしても、見習う価値はある。……俺の相棒も、そう思ってくれると思う」
その頃──。
「……もう、ほんとにどこ行ったのよ、あいつ……」
やはりカッツの気配がない。
護符の光も心なしか、ない。静かな部屋に、チトはぽつんと取り残されていた。
自分で「店主」と呼ばなくなってから、どれくらい経っただろう。
彼をただの雇い主でもなく、護衛として守るべき存在でもなく、1人の人間として意識するようになってから、距離の取り方に迷うことが多くなった。
「……寂しい、なんて……」
やがて、チトは体を起こして、顔を洗い、服を整えた。
足取りはまだ重いが、それでも1階の食堂へと下りていく。
そこで出された朝食は、ナンと、ピンク色のバラのジャム、白くて塩気の強いチーズ、そしてミントやバジル入りのオムレツだった。
一口、ナンをちぎって、オムレツと一緒に口に運ぶ。
「……ん……」
スパイスの香り、焼きたての香ばしさ、口の中にひろがるハーブの余韻。
ほんの一瞬、目の奥に浮かんだのは──手際よくジャイロを巻いていたカッツの横顔だった。
「……また、変なこと考えてる……」
思わず目を伏せる。
胸の奥に湧いた感情は、空腹でも、焦りでも、怒りでもなかった。
(……あたし、あの人のこと……)
チトは、黙ってナンをもう一口ちぎった。
答えはまだ、言葉にならなかった。
──
昼下がりの光が、シャハル・ナールの街をゆっくりと温めはじめていた。
静かな宿の一室で、チトはぼんやりと窓辺に腰をかけていた。
彼女の視線は、何かを追うでもなく、ただ遠くを見つめている。
顔色はまだ少し悪い。二日酔いの名残と、体にこびりついた眠気と、そして――
「……戻ってこない」
短く呟いた声に、少しだけ寂しさがにじんでいた。
カッツの荷物はない。通行手形も、あの人の匂いすら、部屋の中からは消えていた。
それだけで、こんなに静かだなんて。
(ちょっと前までなら……気にも留めなかったのに)
思えば、かつての自分は、ひとりで動いて、ひとりで寝て、ひとりで笑っていた。
誰かを待つなんてこと、したことがなかった。
でも今は違う。
ほんの少し遅く目が覚めただけで、胸のどこかがざわめく。
「……バカ、心配させてるんじゃないわよ」
ベッドのシーツが、くしゃくしゃになったまま広がっていた。
昨夜、眠る直前までそこでふたりが言葉を交わしていた記憶が、ぼんやりと残っている。
(怒って、泣いて、謝られて……それだけだったのに)
なぜか、それがずっと残っている。
彼女はふと、腰の護符に手を添えた。
淡く青く光るそれは、チトの中にある微かな“ぬくもり”の象徴のようだった。
「……変ね、あたし」
誰にともなく、そう言って笑った。
その笑顔は、誰も見ていない場所でこっそり咲く、春の花のようだった。
⸻
昼を過ぎた頃。
シャハル・ナール郊外、《バーグ》の果樹園では、炭火の香りがゆらゆらと空気を満たし始めていた。
「……こりゃあ、いい火になってきたな」
「おう。木の芯が赤く染まったら合図だ。あとは任せたぜ、“カッツ屋”!」
木を集めていた男たちが笑い声を上げる。
果樹園の隅、収穫を終えた作業小屋の裏手では、焚き火を囲んだ即席の宴会が始まろうとしていた。
事の始まりは、午前中の収穫作業が一段落した頃だった。
「なあ兄ちゃん、腹減ってねぇか?」
果樹園の主であり、密造酒の作り手でもある男――ムルダンが、不意にそう口にした。
「少しな。ナンが恋しいってほどじゃないが」
「へっへ、ならちょいと楽しませてやるよ」
そう言うとムルダンは、物置から大きな金串と干し肉、香草を取り出した。
「こいつで肉を焼け。あんた屋台やってるんだって?だから、“あんたの腕”を、見てみてぇんだ」
こうして、焚き火のまわりに集まった男たちは、カッツの手際に興味津々だった。
串打ちしたのは、羊肉の切り身と脂身、それからハーブに漬け込まれた臓物。
あちこちから「酒がほしいなあ」なんてぼやきが飛ぶ。
「こっちは……酒の代わりに、“香りで酔わせる”のさ」
カッツはそう言って、炭火の上に金串をゆっくりと回した。
時折、串を傾けては、滴る脂を火に落とし、煙を香草の束で扇ぐ。
「おおっ、香りが……!」
「なんだこれ……酒も飲んでねぇのに、体があったまってきたぞ……!」
男たちは目を丸くしていた。
「香りは火で開く。だけど焦げさせたら負け。肉はな、“外が騒いでても、静かに仕上げる”のが大事なんだ」
カッツのその言葉に、誰かが「詩人かよ」と笑ったが、目は真剣そのものだった。
やがて、肉の焼ける音とともに、香ばしい煙が風に乗って果樹園を包み始めた。
「兄ちゃん、名前……本当になんてんだ?」
「カッツ。屋号は“グリル・ノマド”」
「グリル・ノマドか……いい名だ」
「ありがとう。……ただの、屋台だけどな」
ムルダンは黙って串を噛みしめた。
肉はほろりと崩れ、ハーブとスパイスが火の中で熟し、舌の奥でひとつになる。
「……くそ、うめぇ……!」
そのあとは、流れるように宴が続いた。
誰かが笛を吹き、誰かが踊りだす。
果樹園の片隅に設けられた石の座台では、酒の代わりに果実の発酵茶が回し飲みされ、男たちは笑い、騒いで、肩を叩き合った。
その輪の中に、違和感なく溶け込んでいるひとりのよそ者。
「……ほんと、信じられねぇよな」
「昨日来たばかりだってのに、まるで昔からいたみてぇな顔してさ」
「なんかこう……あいつの作るもん食うと、昔のこととか思い出すんだよな……」
日が傾く頃。
カッツは焚き火の前で一息ついていた。
指先には、焼き焦げた木の香りがまだ残っていた。
「……チト、今ごろどうしてるかな」
ぼそりとつぶやくその声は、誰にも届かない。
けれど、彼の手のひらの温度には、確かにまだ、昨日の夜に握られた――涙の重みが残っていた。




