6章: 第5話 「鎖と祈り」
南区。
朝の光が、まだ建物の屋根を斜めにかすめるころ。
一夜にして整えられた市場が、次第に目を覚ましはじめていた。
布張りの屋根の下で、スパイスの袋が開けられ、野菜が水で洗われ、炭火の音があちこちから鳴り始める。
だが、そんな中を歩くカッツとチトの足取りは、決して軽いものではなかった。
彼らの肩には、リオから預かった荷――王都の東区に住む豪商への「得体の知れない届け物」があった。
⸻
「……このまま街の真ん中を抜けていけば、検問にかかる」
「だろうな。東区までは遠い。下町と高級街の“温度差”が、目に見えてくるだろうさ」
カッツが肩の荷を少し持ち直す。
彼の顔に、いつものような余裕の笑みはない。だが、チトはそれに何も言わなかった。
「……あたし、少しだけ、この区が怖い」
珍しく、チトが自分の気持ちを言葉にした。
彼女の視線の先にいたのは、通りの端を連れられて歩いていく、鎖につながれた人々だった。
奴隷――
それはこの国の“南区”では、ごく当たり前の存在であり、労働力でもあった。
だが、その集団の中に、チトは見逃せないものを見てしまった。
「……あの子……」
チトが立ち止まり、言葉を詰まらせる。
その声に、カッツが振り返った。
そこにいたのは、肩を落とし、布をかぶせられた、東洋の顔立ちの少女。
年はチトとそう変わらないか、少し下か。
褐色の肌の者が多いこの国で、彼女の白い肌と、黒くまっすぐな髪は、とても目立っていた。
「……祈りの谷の子たちに、似てる」
チトの声が震えた。
「笑って、火を囲んで……あの谷で生きてたはずの子が……どうして鎖につながれて……」
彼女の拳が、自然と握られていた。
腰のマチェットに手を伸ばしかけ――だが、カッツがその手を軽く抑えた。
「……あの子を助けても、お前は救われないぞ」
「…………っ」
チトは、何も言わなかった。
ただ、唇をかみ締めて、視線を落とす。
奴隷の一団は、何事もなかったように路地を抜け、どこかへ消えていった。
南区の空気は、いつも通りにザラついていた。
「……ごめん、カッツ」
「謝るな。お前が怒ってくれて、俺は少しだけ救われた」
⸻
それでも、足を止めるわけにはいかない。
彼らには“届けなければならない荷物”があった。
シャハル・ナールの南から北へと斜めに延びる一本道。
そこをチトとカッツは足早に歩いていた。
背後にはスラムの喧騒がまだ尾を引いており、通りをひとつ抜けるたびに匂いが変わった。
香辛料、家畜の糞、鉄錆、焼けた砂──。すべてが入り混じって鼻をついた。
「……あの奴隷の子、本当に谷の子みたいだった」
小さな声で、チトがぽつりと呟く。
「……どうだろうな。ただ、目つきがお前に似てた」
歩きながらカッツが答える。
沈黙がしばし流れた。だが立ち止まることはなかった。
⸻
やがて、東区の門にたどり着く。
そこには四人の憲兵が並んでいた。鎧も肩章も新しく、他の区とはまるで違う雰囲気が漂っている。
「ここから先は身元の確認を行います。通行目的を」
無表情な兵士が告げると、カッツは無言でリオから預かった荷物を指差した。
「これを、東区の…なんだっけ」
「豪商の屋敷へ届けるよう頼まれてるの」
チトが言葉を引き取った。
兵士の一人が、ちらりと目を細める。
「ザヒール…?なるほど。中を確認しても?」
「それは……ちょっと困る」
カッツが声を低くした。
一瞬、空気が張り詰める。
「困るとは?」
兵士の眉が動く。背後の憲兵たちが微かに構えた。
その時、チトがさっと前に出る。
腰では、リオから託された小さな布袋が揺れていた。
「中身は、香りでわかるはずよ」
兵士が眉をひそめる。確かに、布袋の口からはかすかなスパイスの香りが漂っていた。
深く重く、それでいてどこか涼やか──異国の精油のような、不思議な香り。
兵士は鼻を近づけ、短く頷いた。
「……確かに、“商会の荷”だ。いいだろう。だが、滞在時間が長引けば追って確認を入れる」
そう言って、通行許可の札を渡した。
二人は無言で門を抜けた。
⸻
東区に入ると、世界が変わった。
石畳はなめらかに敷き詰められ、通りには小川が流れている。
建物の屋根は高く、色とりどりの布が日除けとして張られ、風にたなびいていた。
「……絵巻の中みたいだな」
カッツが思わずつぶやく。
「歩く音が吸われるみたい。ここは……音が静かすぎる」
チトもまた、わずかに顔を強張らせていた。
道沿いに進むと、やがてひときわ高い塀に囲まれた屋敷が現れる。
入り口には精緻な金の扉。その前に、紺の制服を着た門番が立っていた。
「お使いかな? こちらに用があると?」
穏やかながらも隙のない口調。
「これを、ファラーン氏へ。……リオから預かってる」
カッツが布袋を持ち上げた。
門番がそれを見ると、静かに目を細める。
「それなら、通せと命じられている。だが──中に入るのは使いの一人だけだ。どちらか一名」
二人は顔を見合わせた。
「……チト、任せてもいいか」
カッツが言った。
チトは軽く頷き、護符の下で拳を握ると、一歩門の中へと足を踏み入れた。
塀の内側、東の空に傾きかけた太陽が、黄金のドーム屋根を照らしていた──。
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