1章: 第7話「迫り来るもの」
旅の朝は早い。
空が薄紫に染まり、東の空から鳥の声が降ってくるころ、チトは寝袋から身を起こした。
荷車の後ろでは、すでにカッツが木箱を運び出し、冷えた鉄板を抱えている。
夜露の匂いと、炭の残り香が朝の空気に混じっていた。
「おはよ」
「……おう、もう起きたのか」
「……痩せた?」
「うるせぇよ。働きすぎて腹が減ってんだよ……」
ふたりは顔を見合わせ、ふっと笑った。
――南の街道沿い、「ギルデンの宿」。
旅人と行商人が集まる中継宿だ。
荷車を引いて到着したとき、敷地内にはすでにいくつもの屋台が並んでいた。
布製のテントには香辛料や干し肉が吊るされ、木のテーブルでは茶を飲む者たちが取引をしている。
焼きパンの香り、商人の笑い声、遠くで響く荷馬車の車輪――まるで“即席の市”だった。
「ここでやるのか……よし」
「にぎやかだけど、油断しないで。あたしも何度か来たけど、裏がある」
「……裏?」
チトは小さくうなずく。
「ここは“味”を奪うやつらが集まる場所。目をつけられたら、盗まれるよ。技術も、信用も」
それでも、ふたりは屋台を開いた。
カッツは肉にスパイスを揉み込み、鉄板で香ばしく焼く。
脂が滴り、火がパチ、と弾ける。
チトは焼きあがった肉と野菜を薄焼きパンにのせ、包み、会計をさばく。
午前、完売。昼前には追加分まで売り切れた。
その様子を、遠巻きに見ていた男がいた――コルベだ。
「随分とやるじゃないか、異邦の料理人さん」
「どうも。手前の味が当たったようでな」
「手前? ああ、それは“君たちだけの味”という意味で?」
「……なにが言いたい?」
コルベは笑みを崩さず、低い声で続けた。
「君の“包み”の味、他の屋台でも使いたいという声が出てるんだよ」
「は?」
「つまり、“レシピを共有しないか”ってことなんだが?」
チトの目が冷たく光った。
「共有? タダで?」
「まさか。交換条件もある。“ギルデンの印章”だよ。この宿の推薦状。あれがあれば、もっと大きな市に出店できる」
カッツは一瞬、迷った。もっと広く売れる――その魅力は確かにあった。
だが、背中でチトの視線を感じる。
「……悪いな。あんたにはこの味、売れねぇ」
「……そうか。断るんだね」
「ウチの副店長が許可しねぇんでな」
コルベは、チトを見た。
「目、鋭いね。君は、どこ出身なんだ?」
「それを言う義理はない」
「ふふ……警戒心の強い子だね」
コルベは肩をすくめ、去っていった。
夜。
焚き火の火がはぜる音と、炭の甘い匂いが漂う中、カッツがため息をつく。
「……レシピ、取られたらどうする?」
「取られないように、あたしがいる」
「心強いな」
「当たり前でしょ。副店長だから」
「……チトさ」
「なに?」
「今日、売れた量、今までで一番だった。……そのさ、忙しすぎて食えてないんだよ、俺」
チトはきょとんとした後、小さく笑った。
「……痩せた理由、結局それじゃん。ちゃんと食わなきゃ倒れるし、営業もできないから時間作ってでもちゃんと食べてよね」
「売れなかったら、な!」
ふたりの笑い声が、夜の草原に溶けていった。