5章: 第16話 「別れの羊皮紙」
草原の風が、夜の冷気を押し流していた。
空にはまだ月が残り、地平線の向こうで、かすかに朝が始まりかけていた。
グリル・ノマド号の脇で、チトは荷を整えていた。
包帯を巻いたカッツも、まだ身体に力は戻りきっていないながらも、鍛えられた腕で慎重に道具をまとめている。
「……今日で、別れか」
彼らの前に、あのキャラバンの家族たちが立っていた。
いつも通り静かだったが、その瞳は何かを語っていた。
老婆が一歩前に出た。
そして、手にした小さな包みをチトへと差し出した。
開いてみると、それは羊皮紙だった。
乾いた皮に、鉱石の粉で描かれた線。それは──道だった。
「……これって、地図……?」
チトが声を漏らすと、老婆は微かにうなずいた。
描かれていたのは、この草原の向こうにある交易路の終端。
風土も言葉も違う、新たな世界への“入り口”を示す道標だった。
「ありがと……」
チトが小さく呟いたその声が、風に乗ってキャラバンの輪に溶けた。
カッツは、腰を上げ、痛みを堪えながら老婆に頭を下げた。
「本当に助かった。……俺たち、また、味で伝えていくよ…火を届け続けられそうだ」
老婆は小さく笑ったようだった。
子どもたちが屋台に駆け寄り、最後の“屋台メシ”をせがんだ。
カッツは笑いながら、鍋に残っていた最後の羊肉と干し野菜をナンで包み、渡していく。
やがて、キャラバンが出発の時を迎えた。
砂煙を巻き上げながら、移動式の家々とともに、音もなく去っていく。
その後ろ姿を、チトはじっと見つめていた。
「……言葉、いらないのかもね。あたし、ちゃんと伝わってた気がする」
カッツは、少しだけ微笑んで彼女を見た。
「味と心があれば、伝えられる。……俺たちは、そういう旅をしてるんだ」
風がまた吹く。
新しい季節の匂いを、かすかに運んできた。
チトは、羊皮紙の地図をもう一度見つめて、静かに口を開いた。
「……ここから先は、今までと違う道になるよ。行ける?」
カッツは深く息を吐いて、グリル・ノマド号のハンドルに手をかけた。
「……整備が必要だな。荷も少し見直す。
旅はまだ続く。だから、進もう」
チトは小さくうなずいた。
その目はもう、迷っていなかった。
――旅は、ここからまた新たな一歩を踏み出す。




