5章: 第14話 「仕込み
──それは、空がまだ白み始める前の、柔らかな時間だった。
カッツの身体にはまだ痛みが残っていた。腹に巻かれた包帯が、命の際を越えてきた証を淡く染めている。だがその胸は、はっきりと鼓動を刻んでいた。
そのすぐ隣で、チトは静かに眠っていた。
彼の肩に頭を預けたまま、安堵の寝息を立てている。
薄明かりに照らされた彼女の頬には、涙の跡がまだ光っていた。
カッツは、そっと手を伸ばした。
彼女の髪──ワインレッドの紐で結ばれた、小さな団子を、ぽんぽんと優しく愛でる。
「……おかえり、チト」
その一言に、彼のすべてが込められていた。
チトのまつ毛がわずかに震え、目が開いた。
そしてすぐ、隣の男が目を覚ましていることに気づくと──
「……カッツ!」
彼女は叫ぶ代わりに、ただ、涙を溢れさせた。
それは戦いの涙ではなかった。救われた想いの、涙だった。
「また辛い想い……させちまったな。……ごめんな」
「してないよ。ちゃんと帰ってきたんだ、あたし」
言いながら、チトはゆっくりとポケットから、小さな草編みの指輪を取り出す。
カッツはそれを受け取ると、ふっと小さく笑う。
「……ちゃんと大切なもん、守って帰ってきてくれたんだな」
彼女の手を、包む様に両手で確かに握った。
──そのとき、テントの入り口がそっと開いた。
「よいかね」
低く、丸みのある声。
遊牧民の長老だった。
杖を突き、ゆっくりと中に入ってくると、持参した布と薬草の包みを置いた。
「……命は、戻ったようじゃの。あの娘が、よう守った」
チトは小さく頭を下げた。感謝の言葉も、責任の痛みも、言葉にはならなかった。
長老はカッツの腹に視線を落とす。
「もう数日、ここで静養が要る。……だが、おぬしらの目は、もう次の地を見ておるようだな」
「……ああ。
でも……焦らず、少しだけ、止まるよ」
チトもまた、無言でうなずいた。
*
それから数刻。
遊牧民のテントの外では、陽が昇り、祝宴の準備が始まっていた。
子どもたちは歌い、大人たちは焚き火の前で香辛料をすり潰していた。
その輪の外、グリル・ノマド号の前に立つふたりの姿があった。
カッツはまだ青ざめた顔ながら、立っていた。
傍らには、マチェットを腰に携えたチトの姿。
彼女の髪は風に揺れ、小さな団子が跳ねていた。
チトはそっとカッツの手を取って言う。
「ねえ、店主。仕込み……一緒にやってもいい?」
それは、彼女なりの「ただいま」だった。
カッツは笑った。
肩を貸すでもなく、守るでもなく──ただ、対等な相棒として。
「もちろんだ、副店長」
炭火の火花が散るように、彼らの足元から黄色い花びらが風に乗っていく。
再出発の予感と静かな使命の火と共に。




