5章: 第13話 「ただいま、おかえり」
夜明け前の草原は、どこか夢の中のようだった。
ひんやりとした空気、銀色の露に濡れた草原。
そして、地平の果てから少しずつ差し込んでくる、桃色の光。
東の空がわずかに明るむ。夜が、ほんの少しだけ更けていく。
空が白んできた。
チトはマチェットの柄を握り、そっと腰へ戻した。
そして、草原の端にしゃがみ込んだ。
指先で、草を摘む。
細く、しなやかな草を、少女の手が編んでいく。
その手つきは、どこか幼い。
草の輪が、ひとつ、できあがる。
カッツの枕元に置くために、そっとそれを手に取った。
──風が、吹く。
チトは立ち上がる。
草原のすべてが、動いた。
空も、朝も、屋台も、命も。
草を踏む足音も、風に揺れるマチェットの鞘の音も、まるで別人のもののようだった。
意識は遠く、胸に残るのはただ、あの温もり。もう届かないと思っていた声。
──あの瞬間、確かにカッツの声が、あたしの背中を押した。
喉の奥までこみあげていた怒りと、後悔と、切り裂きたくなるほどの虚しさ。
すべては、あの小さな護符が光った瞬間に、ふっと止まった。
彼がくれた“想い”が、あたしの手を止めた。
あのときの光が「戻ってこい」と、あたしに言った。
そして今、あたしは戻ってきた。
草をかき分け、遠くに見えたのは……ぼんやりと灯る、ひとつの光。
グリル・ノマド号。風に吹かれ佇むその脇のテントから漏れる小さな明かりだけが、草原に確かに存在していた。
カッツはまだ眠っていた。
包帯の下から滲む血は、もう止まっている。
命が、ここにあった。
チトはしばらくその場に座り込み、肩で呼吸を整えていた。
心が、ずっと震えていた。
「……戻ったよ、店主さん」
ようやく口にした言葉は、まるで子どものように震えていた。
カッツのまぶたがわずかに動き、その視線がチトを捉えた瞬間。
彼は、かすかな声でつぶやいた。
「……おかえり、チト」
その言葉だけで、チトの目からまた、涙がこぼれた。
「……あたし……っ」
言葉にならなかった。
刺すような痛みが胸を走る。でもそれは悲しみじゃなかった。
あたしも、カッツも、生きている。
そのことが、ただ……どうしようもなく、うれしかった。
「カッツ」
「ん……」
「……あたしのこと……ちゃんと信じてた?」
「……ああ。最初から、ずっとな」
チトは何度もうなずいた。
そしてカッツの手を、そっと握った。
彼の体温が、確かにそこにあった。
「ありがと」
「ああ……」
「……今度は、ちゃんと守る。今度こそ、あたしが……」
言葉は誓いになり、誓いは静かに、朝へと溶けていく。
東の空が朱に染まりはじめる。
そして、チトの腰で護符がまた、やさしく光った。
それは、ふたりの“約束”として、あたらしく生まれ変わり、いつまでも優しく灯っていた。あの優しい屋台の灯火のように。




