5章: 第11話 「別れのむこう」
朝靄が晴れきらない草原を、キャラバンは静かに進んでいた。
羊の鳴き声、馬の蹄音、風にゆれる移動式住居の帆布__
すべてが日常の一部であり、すべてが旅の通過点でしかなかった。
チトは、少し遅れて歩きながら、髪を揺らす風にそっと指を当てた。
頭の左右には、先日少女からもらったワインレッドの髪紐が結ばれている。
ツインのお団子は、まだ慣れない。
でも、少女の笑顔がそこに残っている気がして、チトはそれをほどけないままでいた。
「……もう、そろそろだな」
カッツが呟いた。
前を行く遊牧民たちの足が止まる。
広がる視界の先、わずかな丘を越えた先に__
黒煙。
そして、揺らめく人影と、金属の鈍い光。
「……嫌な予感」
チトの手が、無意識にマチェットの柄に触れていた。
「チト。屋台はあの陰に隠してくれ」
「わかった。あんたは?」
「話をするだけだ。……たぶんな」
カッツはそう言って、グリル・ノマド号を草むらに滑り込ませると、上着の中に地図と小銭の袋だけを忍ばせ、手ぶらで歩き出した。
黒煙の元には、4頭の馬、ボロ布をまとった5人の男たち。
彼らは、道を塞ぐように焚き火を囲み、通りかかる旅人の荷車を囲んでいた。
罵声、嘲笑、そして、乾いた笑い声。
焚き火で炙られるのは、獣の肉ではなく、商人の財布だった。
「通行料だとよ……チッ、盗人どもめ」
カッツの低い呟きは、風にかき消された。
その時。
1人の男がこちらに気づき、目を細める。
「……なんだぁ? 新顔じゃねぇか。どっから来た?」
「交易街道の端っこだ。通してくれればそれでいい」
カッツは冷静だった。
背後では、チトがすでに屋台に戻り、マチェットを下ろしていないのを確認している。
「通す? この俺様らにモノも置かずに? あぁん?」
金のネックレスをぶら下げた男が、笑いながら火かき棒を持ち出す。
「……ま、通すのは通すさ。だがな、そこの屋台、いい鉄使ってんなァ。置いてけよ、な?」
「それは、無理だな」
カッツの声は低く、しかし火よりも熱かった。
その時。
「カッツ。下がって」
チトの声が風を裂いた。
風をまとい、白いワンピースの裾が舞う。
彼女は既に男たちの間合いに踏み込んでいた。
「なっ……女が!」
火かき棒が振り上げられる。
その前に、風を切ったのは、チトの低い踏み込み。
柄に手をかけず、ただ睨みつけただけで、男の足がすくんだ。
その目は、光が落とされている。
「……あたし達に触れたら、斬るよ」
その声の刹那、ぱちっと焚き火がはぜた。
数秒の静寂。
空気が張りつめたその時。
「……やめとけ」
一番奥にいた男が、重たい声で言った。
「こいつ……目が違う。あの連中の噂、知ってるだろ? 夜市の火狩り……あれに似てやがる」
沈黙。
やがて、男たちは一歩、また一歩と退いた。
道が、開いた。
「……チト、もう大丈夫だから。ありがとな」
「……もっと早く頼ってよ。どう見たって話なんてできる相手じゃないでしょ」
チトは、ちょっとだけ拗ねた顔をして、それでも素直に引いた。
ふたりは、再び屋台を押して進み始めた。
焚き火の煙が、背に残る。
そして、風が吹いた。
焼けた木の匂いと、草原の匂いが入り混じるその風を、チトは胸いっぱいに吸い込んだ。
「カッツ」
「ん?」
「次の街まで、何日くらい?」
「……歩きなら、三日。馬があれば二日ってとこかな」
「そっか」
そう言って、チトはにっと笑った。
「だったら、今夜は特別メニュー。あたしが作ってあげる」
「それは……期待していいのか?」
「さぁね」
「俺も手伝うよ。キャラバンのおやじから譲ってもらった馬乳酒もあるからな……それに合うやつ、一丁やるか」
二人の笑い声が、草の海に溶けていった。
……その背中を、遠くから見つめる者がいることに、まだ彼らは気づいていなかった。




