1章: 第6話「不穏な風」
朝。
荷車の影に、昨夜の焚き火の白い灰がわずかに残っている。
カッツは鉄板の煤を布で拭き取りながら、ふと隣の影を見た。
そこには、まだ寝癖の残った髪を軽く結んだチトが、無表情で立っていた。
夜露を吸った草の匂いと、冷えた空気の中にかすかな炭の香りが漂っている。
「おはよう」
「……ん」
「……っていうか、お前、結局ついてきてくれるのか?」
カッツは、炭を火にくべながら尋ねた。
「何? 今さら確認?」
「いや、なんていうか……ギルドにも戻らずに、ここまで来てるからさ」
チトはふいと視線を逸らし、口を引き結んだ。
「……“副店長”って呼ばれるの、悪くないしな」
「チト……それ、冗談で言ってたんだが……でも、来てくれるなら助かるな」
「どっちでもいい。あたしが一緒にいるのがイヤなら、言って」
「いや……イヤじゃない。むしろ、ありがたい」
「なら決まり」
ぽつりと、チトは小さく言った。
「“戻るところがない”。その状況、あたしも同じ様なもんだから」
カッツは火を見つめながら、そっと笑った。
チトはそれに気づかないふりをして、背を向ける。
「さ、今日の営業準備。昨日よりは売れるといいね」
――荷車を引いて森の外れへ。
広場には数人の村人が集まり、異邦の屋台に少しずつ興味の視線を向けていた。
その中に、ひとりの整った格好の男がいた。皮製の手袋に、磨かれた靴。名を“コルベ”という。
彼はカッツの包みを食べると、にやりと笑った。
「君たち、センスがあるね。中継宿で出してみないか? 旅人が集まる、宣伝にはちょうどいい場所だ」
「なんだコイツ、胡散くせえな……」
カッツが小声で呟いたが、チトが先に返した。
「検討する。場所だけ教えて」
「南の街道沿い、“ギルデンの宿”だ。俺はしばらくそこにいる」
そう言い残して、コルベは去っていった。
その背中を、チトはしばらく無言で見送っていた。
――その夜、焚き火を前に。
「なあ、チト。本当にいいのか? こんな得体の知れない旅に、ついてきて」
チトは黙ったまま、木の枝で火をつつく。
パチ、という音とともに、小さな火花が夜空に散った。
「……火って、さ」
「うん?」
「昔、家の囲炉裏で父親が鶏を焼いてくれたことがあった。味なんてもう覚えてないけど、その匂いだけはずっと残ってる」
「……ああ」
「だからたぶん、火に惹かれたってのもあったけど――あんたの料理だったのかも」
チトはポツリとそう言い、顔を上げた。
一瞬、カッツは言葉をなくし、少し笑ってから答える。
「意外に素直なとこあんだな……」
「うるさい。さっさと次の平パン仕込んで」
チトが微かに赤くなった頬を、焚き火の影に隠すように目を逸らした。
――明朝。
荷車に手をかけたチトは、ぽつりと言った。
「せめて旅するなら、楽しませてよね。じゃないと責任、取ってもらうから」
「はいよ、“副店長”」
朝日に照らされた街道が、まっすぐに伸びていた。
ふたりの旅は、少しずつ、確かになっていく。