5章: 第7話 「声なき会話」
朝、野営地の風が少し冷たかった。
太陽はすでに昇っていたが、昨夜の焚き火の灰がまだほんのり温もりを残している。
カッツは屋台の裏で荷物の整頓をしていた。チトは、水袋を肩にかけて、草原の先へと向かっていた。
──今日は、チトひとりで水を汲みに行く番だった。
水場は少し離れた丘の向こう、自然のくぼ地に溜まった雨水と、近くの湧き水が混ざる場所だった。
そこに、先客がいた。
ひとりの少女。
年の頃はチトより少し下だろうか。
黒く長い髪を三つ編みにし、草色の布を肩から掛けている。
そして──彼女は、喋らなかった。
「あ……」
チトが声をかけると、少女は首をかしげて小さく会釈した。
返事はない。けれど、敵意もない。
チトは少し戸惑いながらも、少女の隣に座って水を汲んだ。
数分、沈黙。
風の音と、革袋に注がれる水の音だけが静かに響く。
「……あたし、チト。あんたは?」
少女はまた、返事をしない。
だが、指で地面に何かを描き始めた。
──丸の中に、小さな点。
チトはそれが何か分からなかったが、少女の目が穏やかだったから、問い返すことはしなかった。
ただ、微笑んで、地面に“クローバー”の絵を描いた。
少女はそれを見て、くすりと笑った。
それは、“会話”だった。
チトは腰のポーチから、干しリンゴの切れ端を取り出した。
少女のほうへ差し出すと、彼女は驚いたように目を丸くし──一呼吸置いて、受け取った。
そして、自分の布袋から、白いチーズをひとつ差し出す。
互いに、頷いて、食べる。
ふたりの口元が、少しだけ綻んだ。
その時、少女がチトの腰に差したマチェットをちらりと見た。
まじまじと、というより“気にしていない”ような目だった。
──重さや意味ではなく、“在る”ということを、ただ認識していた。
「……あたし、昔から、これを持ってるのが当たり前で……」
ふと、チトは言った。
少女は答えない。けれど、顔をこちらに向け、目だけが真っ直ぐだった。
「でも最近、あんまり、抜いてない。そういう旅が続いてるから、あたし……」
──言いかけて、チトはふっと目を伏せた。
「……そっちの方が、好きかも」
少女の手が、チトの手にそっと触れた。
指先が重なった一瞬、
声にならない“なにか”が、草原の風の中でやさしく揺れた。
その後、少女は両手を合わせ、何かの“祈り”のような動作を見せた。
そして立ち上がり、軽く礼をして去っていった。
チトは立ち尽くしたまま、空を見た。
──風が、吹いていた。
「……あんたにも、ちゃんと通じたんだね」
戻ってきたチトに、カッツは問いかけなかった。
ただ、彼女が少しだけ目元を緩めていたから、それで十分だった。
その夜。
チトは焚き火の前で、草で編んだ小さなリングをいじっていた。
それは、少女が去り際に残したもの。
意味は分からない。けれど、手放したくはなかった。
焚き火の光が、草の指輪を照らしていた。




