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5章: 第3話 「加護のかたち」


朝、町はすでに動き出していた。

まだ陽は低いのに、井戸の周りには列ができている。

桶を引き上げるたびに、木の軋む音と水のはねる音が響く。

その向こうでは、焼いた穀物の香ばしい匂いと、家畜の鳴き声。

風が運んでくるのは、乾いた草の匂いと、人の暮らしの息づかいだった。


「今日が市の日って、宿の婆さんが言ってたな」

カッツが鉄板を磨きながら呟く。

光を反射する鉄の面に、朝の煙が揺らめいて映る。


「……人、多いな」

チトは少しだけ声を潜めた。

その手は、無意識に外套のフードを深く下げていた。

視線が集まるのが、あまり得意じゃない。

でも、遠くから聞こえる笑い声や太鼓の音に、胸の奥がわずかに高鳴る。

(……なんか、いい匂い)

炭火と獣脂の混じった匂いが鼻をくすぐり、

それだけで旅の疲れが少し抜けていく気がした。


「今日は出さねぇ。買い手に回る日だ」

カッツの言葉に、チトは小さく頷く。

「……了解。ふたりとも非番、だね」

軽く笑いながら、グリル・ノマド号の脚を固定する。

その仕草には、どこか安堵が混ざっていた。

“火”を使わない朝も、悪くない。


 


市は、町の中心にあった。

砂と石で舗装された広場に、粗末な布を張った屋台がいくつも並ぶ。

乾燥チーズや羊革、発酵乳の壺、草を編んだ器。

木槌で叩く音や、荷を解く音が、あちこちで響く。

異国の言葉が飛び交い、金属ではなく、

木と土のぶつかる音が町のリズムを作っていた。


チトは周囲を見回しながら、目を細める。

人々の顔立ちは、祈りの谷とも草原とも違う。

肌の色も髪もまばらで、まるで世界の“境目”みたいだった。


風が吹くたびに、香草と乳の匂いが混ざり、

どこか懐かしく、けれど初めての場所のようでもあった。


 


「お、この包丁、使えそうだな……」

カッツが屋台の棚から一本を取り出し、

刃の重心を確かめるように手首をひねる。


「でもそれ、鋼じゃないよ。骨と鉱粉の混合。多分、焼きが浅い」

チトが無意識に補足する。

金属の鈍い色を見て、目が自然に判別していた。


その瞬間、屋台の奥にいた老人が、驚いたようにこちらを見た。

言葉は通じない。けれど、目が合うと、老人は柔らかく笑った。

カッツが包丁を掲げて見せると、老人は同じ仕草で頷き返す。

短いやり取りだったが、不思議と温かい。


まるで、あの草原でジャイロを渡したときのように、

言葉より先に“通じ合う”瞬間が、ここにもあった。




昼を過ぎても、市場の熱は冷めなかった。

陽の角度が傾き、布屋根の隙間から射す光が少しずつ赤みを帯びていく。

通りを歩くたびに、香草の束が風に揺れ、鼻先をくすぐる。

チトは荷物を片腕に抱えながら、ゆっくりと歩いていた。


「……カッツ、こっち」


呼ばれるようにして立ち止まる。

カッツが視線を向けた先――そこにあったのは、小さな屋台。

木の台の上に並んでいたのは、丸められた羊皮紙、乾いた草、

焼き印、そして小さな石や玉。

香ばしい焚き草の香りと、どこか懐かしい土の匂いが漂っていた。


屋台の奥には、腰の曲がった老女が座っていた。

年齢はわからない。

日焼けた肌の皺に、砂色の布の影が重なり、

眼差しはまるで、何かを見透かすようだった。


「……護符、かな」

チトが小声でつぶやく。

「なんだ、それ?」

「守り札みたいなもの。あたしのいたギルドでも似たの見たことある」

「へぇ、こういうのも売るんだな。商売ってやつはどこでも同じか」


カッツは冗談めかして笑ったが、

その声が止まったのは、ひとつの玉に目を留めた瞬間だった。


 


それは、他の護符とは違った。

淡い水色の石に、群青の油で描かれた細い渦の模様。

光の角度で、青が揺れるように動く。

近づいてみると、冷たい空気をまとっているように感じた。


「……空の色みたい」

チトがぽつりと言う。



老女はゆっくりと顔を上げた。

カッツとチトを見比べ、手を差し出す。

指先には、土と油の匂いが染みついていた。

その手が、カッツの手を軽く包み、

「……カゴ(加護)……」

と、掠れた声で言った。


言葉は通じなかった。

けれど、老女の目は笑っていた。

どこかで“旅人”を知っている目だった。


 


チトは少し首を傾げ、

「……なんか、見透かされてるみたい」

と呟いた。

老女がチトに視線を向ける。

その瞳の奥に、一瞬、淡い光が宿った気がした。

まるで、“彼女が何かを背負っている”ことを理解しているように。

チトは思わず目を逸らし、

「……別に、なんでもない」

と、少し早口で言った。


 


カッツは、静かに護符を手に取る。

それを光にかざすと、群青の渦が微かに動いた。

風が通り抜け、屋台の端の布がはためく。

老女は頷き、小さな声で何かを唱える。

祈りのような、歌のような。

チトには意味がわからなかったけれど、

音の響きだけは、不思議と心に残った。


「……加護の紋、だって。…多分」

チトが小声で訳すように言う。

「ふーん……」

カッツはチトに気づかれないようにその玉を包み、革の小袋に入れた。

老女に銀貨を渡すと、彼女は微笑み、

今度はチトの方を見て、

両手を合わせるようにして頭を下げた。


それは、別れの挨拶というよりも――

“無事であれ”という祈りのようだった。


 


「……ありがとう」

チトは思わずそう口にしていた。

言葉は違っても、伝わる気がした。


二人が歩き出すと、

背後で老女の屋台の小さな鈴が、風に鳴った。

乾いた音が遠くで何度か響き、

やがて市場の喧騒に溶けていった。



夕暮れが過ぎ、カル・タンの町は静けさを取り戻していた。

昼間のざわめきが嘘のように消え、焚き火の煙だけが夜空へ細く上がっていく。

遠くで笛の音が聞こえ、風の流れが変わる。

空は深い青に沈み、月が屋根の上で薄く光っていた。


宿の一室。

木の扉の向こうからは、隣の部屋の笑い声がかすかに響いてくる。

旅人たちの夜は短い。

だが、チトはまだ眠る気になれなかった。


買い出しで手に入れた布を畳みながら、

「……なんか、買ってたよね。最後に」

と、唐突に口を開く。


「包んで隠してた。あれ、なに?」


カッツは動きを止めた。

指先にかかった布の感触が妙に重くなる。

ほんのわずかな間を置いて、

「……ただの革だよ。帯でも作ろうと思ってな」

と答える。

声はいつもより低かった。

チトは一瞬、目を細めて見上げる。

「ふーん……そう」

その口調は素っ気ないが、

言葉の裏に“信じるけど、覚えてるからね”という柔らかい棘があった。


 


外では、風が宿の壁を撫でていく。

その音を聞きながら、チトは寝台の端に腰を下ろした。

足元には、今日の市で手に入れた乾燥桃。

ひとつ摘んで口に放り込む。

ほのかな甘みが舌に残り、

その味に、昼間の老女の笑顔がふと思い浮かぶ。


「……また会える気がする。あのラクダの人たち」

小さく呟いたその声は、風よりも穏やかだった。


「そうかもな」

カッツは壁にもたれ、腕を組んで答える。

「世界は広い。でも、道は案外狭い。出会う奴とはまた会うもんだ」


チトはその言葉を聞きながら、

ふっと息を吐いて笑った。

「……あんた、たまに詩人みたいなこと言うよね」

「言葉が多い夜は、眠れない夜だ」

「うわ、なにそれ。余計眠れなくなったし」

チトは枕を軽く投げつけるふりをして、

「ばか」と小声で付け足した。

それを聞いたカッツは笑いをこらえながら、

「おやすみ、副店長」

とだけ言って目を閉じた。


 


部屋が静まり返る。

灯りが弱く揺れ、影が壁を流れていく。

チトは寝台に横たわりながら、

天井を見上げていた。

「……護符、か」

ぽつりと呟く。

あの老女の目が脳裏に浮かぶ。

“あなたは火の人”と、もし言葉が通じたならそう言われていた気がした。

胸の奥が少し熱くなる。

それがなんなのか、まだわからない。

でも、悪くない感覚だった。


 


カッツは静かに小袋を取り出した。

チトが寝息を立て始めるのを確かめると、

中身をそっと手のひらにのせる。

淡い水色の玉が、月明かりを受けて淡く光った。

渦の模様が、ほんの一瞬だけ、動いた気がした。

「……こんなもので、守れたら上出来だ」

小さく呟いて、

それを内ポケットに忍ばせる。


風が再び吹き込み、カーテンがわずかに揺れた。

外では夜の虫が鳴き、遠くで焚き火が弾ける。

温かくも、寂しくもない夜。

ただ静かに、次の旅への気配だけが漂っていた。


 


そして月の光が、ふたりの寝顔を照らす。

ひとりは、まだ知らぬ加護の意味を胸に。

もうひとりは、それを守ろうとする決意を胸に。


──風の音が、ふたりの夢を繋いでいた。


 

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