5章: 第1話 「地図の端に」
草の匂いが、風に乗っていた。
冷たさよりも、どこか甘みを含んだ匂い。雪の溶けた地面から、緑の芽が覗きはじめている。
陽はまだ斜めに傾き、ふたりと屋台の影を細く長く引きずっていた。
「……ここが、次の世界か」
カッツが低く呟く。
見渡す限りの草原。風が丘をなぞり、草の穂が波のようにうねる。
赤土の岩肌がところどころに顔を出し、風の筋がその隙間を抜けてゆく。
遠くでは小さな鳥の群れが、低く、一定のリズムで飛び交っていた。
チトは髪を押さえ、少し眩しそうに空を見上げた。
「……何も、ないね。でも、地図の印はこっちで合ってる?」
カッツは懐から一枚の紙を取り出す。
かつて“祈りの谷”で受け取ったもの――墨が乾ききって、端が少し焦げたように見える。
羊皮紙のように硬い質感。描かれているのは“地名”というよりも“記憶”だった。
風の門、水の印。
たったそれだけの手がかり。それでも二人には十分だった。
「……ああ、間違いねぇ。この先に“オアシスの町”がある。行ってみよう」
チトは頷き、グリル・ノマド号の取っ手を握った。
屋台の屋根には、草原仕様の薄い帆布。荷は最小限。
軽くなったとはいえ、鉄の骨組みを押す腕に、地面の抵抗が確かに伝わる。
「……重くないか?」
「慣れたよ。あんたの包丁より軽い」
「包丁は……なんつうか、心の一部だから重くねぇんだ」
「……何その理屈。まぁ、屋台の方が包丁よりは重いけどさ」
チトは苦笑して、屋台を押す力を少しだけ強めた。
風が頬を撫でる。
――その風の先に、まだ見ぬ“火の気配”があるような気がしていた。
*
二日目の朝。
風は昨夜より乾き、空はどこまでも薄い青だった。
草を踏むたびに、細かな砂がざり、と音を立てる。
「……なんか、焼きたくなってきた」
チトが呟いた。
カッツは頷き、屋台の鉄板を開いた。
「ジャイロでも焼くか。何も見えなくても……火の匂いが、客を呼ぶ」
火打ち石の音が三度響き、炭がじわりと赤く光る。
油が鉄板に落ちると、ぱち、と乾いた音を立てた。
風がそれを攫い、肉とスパイスの香りが草原に流れていく。
やがて、地平線の向こうに砂煙。
陽炎のように揺れる影が、ゆっくりと形を帯びていく。
四本足の獣、長い首……ラクダだ。
十数頭の隊列。男たちがそれに跨り、布のターバンを風になびかせている。
「……交易隊だな」
「どこから来たんだろ」
「それを確かめるために、焼いてるんだ」
やがて彼らは屋台の前で止まった。
陽に焼けた肌。耳には金の飾り。言葉は通じない。
けれど、その視線は真っすぐに鉄板の上の肉へと注がれていた。
チトが一歩前に出る。
風が彼女のスカートを揺らし、火の香りがその髪に溶け込む。
「……渡してみる。味が通じるか、確かめたい」
彼女は一枚のジャイロを木皿にのせ、両手で差し出した。
最年長らしき男がそれを受け取り、しばし見つめてから、一口。
噛む音が、静寂の中に響いた。
──そして、低く呟く。
「……オアシ・カル・タン」
その発音に、カッツが反応する。
「……地図にあった名だ」
カッツが地図を見せると、男は草の上に跪き、指で線を描く。
「この道……東、二日。馬。歩き……三、四日」
意味は通じた。
味で、通じた。
男たちは礼のように革の水筒と乾燥羊肉を置き、再び砂煙の向こうへと去っていく。
風が残り香を運び、草原にスパイスの匂いだけが残った。
「……味で交わす。あんたの言う通り、商いは言葉より早いね」
「お前の火が、ちゃんと通訳してくれたんだよ」
チトは小さく笑った。
その笑顔に、草原の光が反射して、まるで焔のように瞬いた。
*
昼を越え、陽が傾きかけた頃だった。
風が変わった。
乾いた砂の匂いの中に、かすかに水の気配が混じる。
足元の草は濃く、柔らかくなり、風に運ばれる音が遠くで跳ね返ってくる。
「……空気、湿ってきたね」
チトがそう言って、胸いっぱいに吸い込む。
肺の奥が少し痛いほどに、空気が冷たく澄んでいた。
「もうすぐだ」
カッツが前を指さす。
丘の向こう、陽光を反射する白い点がちらちらと見える。
ふたりは屋台を押す力を少し強めた。
グリル・ノマド号の車輪が、粘り気のある土を踏むたび、ぐっと重くなる。
けれど、それは“生命の重さ”だった。
この先に、人と水と火がある。
丘を下りると、空気は一気に変わった。
湿った風が頬を撫で、遠くでヤクのような家畜が鳴く。
薄茶の砂に、白い布のテントが点在している。
煙がまっすぐに上り、羊脂の焦げる匂いがした。
「……あれか」
「遊牧の集落……。見て、焚き火の形が“祈りの谷”と似てる」
チトの声が少し震える。
それは懐かしさでもあり、未来への期待でもあった。
屋台を止めると、風の音が消えた。
ただ、世界の呼吸だけが聴こえる。
カッツが息を整えながら、ぽつりと言った。
「なあ、チト。お前、前に言ってただろ。“足りないもの”を探してるって」
「うん」
「たぶん、違うんだな。旅は、“余計なもの”を置いていく過程なんだと思う」
チトは目を細めた。
「……でも、それでも持ってくんだよ。置いていったぶん、想いを積んで」
カッツは笑って頷く。
「だったら、もう重さは恐れなくていいな」
「そうだね」
ふたりは屋台を押し、焚き火の輪へと進んだ。
草の上に影が落ち、鉄板が陽を反射する。
チトが薪をくべ、バターを落とす。
じゅっ、と音がして、甘い香りが立ちのぼる。
「……副店長、注文は?」
「この地で採れた最初の命を、味に変えてみせて。店主」
カッツは笑い、包丁を構えた。
その背を照らす夕陽が、ふたりの旅の次なる地図を描き始めていた。
――火は、まだ消えていない。
風の向こうで、新しい香ばしさが待っている。
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