表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
50/152

5章: 第1話 「地図の端に」

草の匂いが、風に乗っていた。

冷たさよりも、どこか甘みを含んだ匂い。雪の溶けた地面から、緑の芽が覗きはじめている。

陽はまだ斜めに傾き、ふたりと屋台の影を細く長く引きずっていた。


「……ここが、次の世界か」

カッツが低く呟く。


見渡す限りの草原。風が丘をなぞり、草の穂が波のようにうねる。

赤土の岩肌がところどころに顔を出し、風の筋がその隙間を抜けてゆく。

遠くでは小さな鳥の群れが、低く、一定のリズムで飛び交っていた。


チトは髪を押さえ、少し眩しそうに空を見上げた。

「……何も、ないね。でも、地図の印はこっちで合ってる?」


カッツは懐から一枚の紙を取り出す。

かつて“祈りの谷”で受け取ったもの――墨が乾ききって、端が少し焦げたように見える。

羊皮紙のように硬い質感。描かれているのは“地名”というよりも“記憶”だった。


風の門、水の印。

たったそれだけの手がかり。それでも二人には十分だった。


「……ああ、間違いねぇ。この先に“オアシスの町”がある。行ってみよう」


チトは頷き、グリル・ノマド号の取っ手を握った。

屋台の屋根には、草原仕様の薄い帆布。荷は最小限。

軽くなったとはいえ、鉄の骨組みを押す腕に、地面の抵抗が確かに伝わる。


「……重くないか?」

「慣れたよ。あんたの包丁より軽い」

「包丁は……なんつうか、心の一部だから重くねぇんだ」

「……何その理屈。まぁ、屋台の方が包丁よりは重いけどさ」


チトは苦笑して、屋台を押す力を少しだけ強めた。

風が頬を撫でる。

――その風の先に、まだ見ぬ“火の気配”があるような気がしていた。



二日目の朝。

風は昨夜より乾き、空はどこまでも薄い青だった。

草を踏むたびに、細かな砂がざり、と音を立てる。


「……なんか、焼きたくなってきた」

チトが呟いた。


カッツは頷き、屋台の鉄板を開いた。

「ジャイロでも焼くか。何も見えなくても……火の匂いが、客を呼ぶ」


火打ち石の音が三度響き、炭がじわりと赤く光る。

油が鉄板に落ちると、ぱち、と乾いた音を立てた。

風がそれを攫い、肉とスパイスの香りが草原に流れていく。


やがて、地平線の向こうに砂煙。

陽炎のように揺れる影が、ゆっくりと形を帯びていく。

四本足の獣、長い首……ラクダだ。

十数頭の隊列。男たちがそれに跨り、布のターバンを風になびかせている。


「……交易隊だな」

「どこから来たんだろ」

「それを確かめるために、焼いてるんだ」


やがて彼らは屋台の前で止まった。

陽に焼けた肌。耳には金の飾り。言葉は通じない。

けれど、その視線は真っすぐに鉄板の上の肉へと注がれていた。


チトが一歩前に出る。

風が彼女のスカートを揺らし、火の香りがその髪に溶け込む。


「……渡してみる。味が通じるか、確かめたい」


彼女は一枚のジャイロを木皿にのせ、両手で差し出した。

最年長らしき男がそれを受け取り、しばし見つめてから、一口。

噛む音が、静寂の中に響いた。


──そして、低く呟く。


「……オアシ・カル・タン」


その発音に、カッツが反応する。

「……地図にあった名だ」


カッツが地図を見せると、男は草の上に跪き、指で線を描く。

「この道……東、二日。馬。歩き……三、四日」


意味は通じた。

味で、通じた。


男たちは礼のように革の水筒と乾燥羊肉を置き、再び砂煙の向こうへと去っていく。

風が残り香を運び、草原にスパイスの匂いだけが残った。


「……味で交わす。あんたの言う通り、商いは言葉より早いね」

「お前の火が、ちゃんと通訳してくれたんだよ」


チトは小さく笑った。

その笑顔に、草原の光が反射して、まるで焔のように瞬いた。




昼を越え、陽が傾きかけた頃だった。

風が変わった。

乾いた砂の匂いの中に、かすかに水の気配が混じる。

足元の草は濃く、柔らかくなり、風に運ばれる音が遠くで跳ね返ってくる。


「……空気、湿ってきたね」

チトがそう言って、胸いっぱいに吸い込む。

肺の奥が少し痛いほどに、空気が冷たく澄んでいた。


「もうすぐだ」

カッツが前を指さす。

丘の向こう、陽光を反射する白い点がちらちらと見える。


ふたりは屋台を押す力を少し強めた。

グリル・ノマド号の車輪が、粘り気のある土を踏むたび、ぐっと重くなる。

けれど、それは“生命の重さ”だった。

この先に、人と水と火がある。


丘を下りると、空気は一気に変わった。

湿った風が頬を撫で、遠くでヤクのような家畜が鳴く。

薄茶の砂に、白い布のテントが点在している。

煙がまっすぐに上り、羊脂の焦げる匂いがした。


「……あれか」

「遊牧の集落……。見て、焚き火の形が“祈りの谷”と似てる」


チトの声が少し震える。

それは懐かしさでもあり、未来への期待でもあった。


屋台を止めると、風の音が消えた。

ただ、世界の呼吸だけが聴こえる。

カッツが息を整えながら、ぽつりと言った。


「なあ、チト。お前、前に言ってただろ。“足りないもの”を探してるって」

「うん」

「たぶん、違うんだな。旅は、“余計なもの”を置いていく過程なんだと思う」


チトは目を細めた。

「……でも、それでも持ってくんだよ。置いていったぶん、想いを積んで」


カッツは笑って頷く。

「だったら、もう重さは恐れなくていいな」

「そうだね」


ふたりは屋台を押し、焚き火の輪へと進んだ。

草の上に影が落ち、鉄板が陽を反射する。

チトが薪をくべ、バターを落とす。

じゅっ、と音がして、甘い香りが立ちのぼる。


「……副店長、注文は?」

「この地で採れた最初の命を、味に変えてみせて。店主」


カッツは笑い、包丁を構えた。

その背を照らす夕陽が、ふたりの旅の次なる地図を描き始めていた。


――火は、まだ消えていない。

風の向こうで、新しい香ばしさが待っている。


ここまで読んでいただきありがとうございます!

評価やブクマで応援いただけると励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ