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4章: 第20話 「辿り着く地」


 峠を越えた瞬間、風の匂いが変わった。


 昨日まで頬を切り裂くようだった冷気が、どこか湿り気を帯びている。鼻の奥をくすぐるのは雪ではなく、土と草の匂いだった。


 斜面を下るごとに、景色も変わっていく。

 岩肌にしがみついていた苔は瑞々しく広がり、小さな新芽が枝先を揺らす。やがて低木が群れを成し、踏みしめる足元の雪はしだいに薄れていった。


「……下りてきてるんだな」

 カッツが取っ手を握り直し、息をつく。


 グリル・ノマド号の車輪は硬い石を叩き、やがて湿った土を鳴らす。轍に溶けた雪が混じり、細い水の筋が谷筋へと流れ落ちていった。


 ふいに、どこかで鳥のさえずりが響いた。冷えきった山に戻ってきた命の音。チトは立ち止まり、耳を澄ませる。

「もう雪の音じゃない……。ほんとに、草の匂いがする」


 目を上げれば、山肌の向こうにひろがる空が、少しずつ大きく見えてきていた。




 下り坂を進むにつれ、視界は一気に開けていった。


 つい先ほどまで谷の壁に挟まれていたはずが、いつの間にか空がぐんと広がっている。青一色の天蓋の下、光を浴びた草が波のように揺れていた。


 雪解け水が丘の斜面をつたって流れ、小川をつくり、そのほとりに背の高い草が根を張っている。乾いた岩場から、しっとりとした湿原めいた地帯への移ろいが、足元の変化ではっきりと分かった。


「……見ろ」

 カッツが顎で示す。


 遠くの地平、草の海の真ん中に白い点々が並んでいた。

 人の背丈ほどの白布で覆われた円形の住居――移動式のテント群だ。その脇には黒や茶の影が群れて動く。羊か馬か、草原を食みながらゆるやかに歩いている。


 焚き火の煙がまっすぐに立ちのぼり、空の青と交わって消えていく。風に乗って、乳を温めた甘い匂いがかすかに漂ってきた。


「……遊牧民の大草原」

 チトの声は、小さく震えていた。

 その瞳には驚きと期待と――ほんの少しの畏れが、ないまぜになって映っていた。


 ノマド号は、丘を下りながら少しずつ速度を落とす。

 風はもう冷たくなく、ふたりの髪を撫でるようにやさしく吹き抜けていった。




「……ねえ、カッツ」

 チトがぽつりとつぶやいた。


「この旅、ずっと“足りないもの”を探してると思ってたけど……実は、“余計なもの”を捨てる旅だったのかもね」


 カッツは無言で頷いた。

 装備も、荷も、そして過去も――軽くしてきたから、こうして草原まで辿り着けたのだ。


「……俺は、軽くなったお前を、重く背負う準備ができてるぞ」

「重いって言ってんじゃん」

「言ってねぇよ」


 ふたりは顔を見合わせ、草原の風に乗って吹き出した。



 丘を下りきると、草の匂いはいっそう濃くなった。

 乾いた大地の匂いに混じるのは、家畜の乳の香り、焚き火の煙の匂い。近くの子どもの笑い声、羊や馬の鳴き声、鍋の弾ける音――すべてが生きた営みの証だった。


 ノマド号がそのざわめきの中へと滑り込んでいく。


「……ここにも、香ばしい風が吹いてる」

「焼こうか」

「うん、焼こう」


 帳面を開き、在庫を確かめ、鉄板を磨く。薪をくべ、火を入れる。バターのかけらを落とすと、じゅ、と音がして、甘やかな香りが立ちのぼった。

 それはどこか、祈りの谷で受け取った乳の香りと似ていた。だが今は、この大草原の風と混じり、まったく新しい匂いになっている。


「……副店長、注文は?」

「この地で採れた、最初の命を味に変えてみせてよ。店主」


 カッツは小さく笑い、鉄板の上で肉を返した。



 こうしてふたりは、この世界で生きていく。

 料理と、旅と、出会いのなかで。

 重さを捨て、想いを積み重ねながら。


 次なる目的地はまだ見えない。だが、それでいい。


 旅は、続く。


5章へ続く。


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