4章: 第20話 「辿り着く地」
峠を越えた瞬間、風の匂いが変わった。
昨日まで頬を切り裂くようだった冷気が、どこか湿り気を帯びている。鼻の奥をくすぐるのは雪ではなく、土と草の匂いだった。
斜面を下るごとに、景色も変わっていく。
岩肌にしがみついていた苔は瑞々しく広がり、小さな新芽が枝先を揺らす。やがて低木が群れを成し、踏みしめる足元の雪はしだいに薄れていった。
「……下りてきてるんだな」
カッツが取っ手を握り直し、息をつく。
グリル・ノマド号の車輪は硬い石を叩き、やがて湿った土を鳴らす。轍に溶けた雪が混じり、細い水の筋が谷筋へと流れ落ちていった。
ふいに、どこかで鳥のさえずりが響いた。冷えきった山に戻ってきた命の音。チトは立ち止まり、耳を澄ませる。
「もう雪の音じゃない……。ほんとに、草の匂いがする」
目を上げれば、山肌の向こうにひろがる空が、少しずつ大きく見えてきていた。
*
下り坂を進むにつれ、視界は一気に開けていった。
つい先ほどまで谷の壁に挟まれていたはずが、いつの間にか空がぐんと広がっている。青一色の天蓋の下、光を浴びた草が波のように揺れていた。
雪解け水が丘の斜面をつたって流れ、小川をつくり、そのほとりに背の高い草が根を張っている。乾いた岩場から、しっとりとした湿原めいた地帯への移ろいが、足元の変化ではっきりと分かった。
「……見ろ」
カッツが顎で示す。
遠くの地平、草の海の真ん中に白い点々が並んでいた。
人の背丈ほどの白布で覆われた円形の住居――移動式のテント群だ。その脇には黒や茶の影が群れて動く。羊か馬か、草原を食みながらゆるやかに歩いている。
焚き火の煙がまっすぐに立ちのぼり、空の青と交わって消えていく。風に乗って、乳を温めた甘い匂いがかすかに漂ってきた。
「……遊牧民の大草原」
チトの声は、小さく震えていた。
その瞳には驚きと期待と――ほんの少しの畏れが、ないまぜになって映っていた。
ノマド号は、丘を下りながら少しずつ速度を落とす。
風はもう冷たくなく、ふたりの髪を撫でるようにやさしく吹き抜けていった。
*
「……ねえ、カッツ」
チトがぽつりとつぶやいた。
「この旅、ずっと“足りないもの”を探してると思ってたけど……実は、“余計なもの”を捨てる旅だったのかもね」
カッツは無言で頷いた。
装備も、荷も、そして過去も――軽くしてきたから、こうして草原まで辿り着けたのだ。
「……俺は、軽くなったお前を、重く背負う準備ができてるぞ」
「重いって言ってんじゃん」
「言ってねぇよ」
ふたりは顔を見合わせ、草原の風に乗って吹き出した。
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丘を下りきると、草の匂いはいっそう濃くなった。
乾いた大地の匂いに混じるのは、家畜の乳の香り、焚き火の煙の匂い。近くの子どもの笑い声、羊や馬の鳴き声、鍋の弾ける音――すべてが生きた営みの証だった。
ノマド号がそのざわめきの中へと滑り込んでいく。
「……ここにも、香ばしい風が吹いてる」
「焼こうか」
「うん、焼こう」
帳面を開き、在庫を確かめ、鉄板を磨く。薪をくべ、火を入れる。バターのかけらを落とすと、じゅ、と音がして、甘やかな香りが立ちのぼった。
それはどこか、祈りの谷で受け取った乳の香りと似ていた。だが今は、この大草原の風と混じり、まったく新しい匂いになっている。
「……副店長、注文は?」
「この地で採れた、最初の命を味に変えてみせてよ。店主」
カッツは小さく笑い、鉄板の上で肉を返した。
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こうしてふたりは、この世界で生きていく。
料理と、旅と、出会いのなかで。
重さを捨て、想いを積み重ねながら。
次なる目的地はまだ見えない。だが、それでいい。
旅は、続く。
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5章へ続く。




