4章: 第19話 「静かな呼吸」
白が、すべてを覆っていた。
朝方にちらついていた雪は、午後になると音を伴いながら降りしきり、斜面の木々を揺らしては枝から粉雪をはらい落とす。風は低い唸り声のように谷を走り抜け、テントの布を絶え間なく叩きつけていた。
チトは入口を押さえ、隙間から外を覗いた。
「……真っ白」
視界は五歩先まで。けれど、地面には確かに轍と、グリル・ノマド号の車輪の跡が残っている。それは、ふたりがここまで歩いてきた証だった。
「カッツ、大丈夫?」
奥の寝袋で体を縮めていた男が、ぼそりと返す。
「なんとか……寒いだけでな」
「それが“大丈夫じゃない”っていうんだよ」
言葉は冷たいが、眉が少しだけ下がっていた。
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焚き火は起こせなかった。外では風が火を散らし、テント内では煙がこもる。最悪、窒息する危険がある。
だが、カッツは風の通りを観察していた。隙間風は一定の方向に抜けている。ならば――
「チト、悪いがもう少し端に寄ってくれ。……風の通り道を作りたい」
芋虫のように寝袋を引きずり、チトは端に身を寄せる。
蝋を固めて作った小さな燃料片を取り出す。五徳代わりの銅鍋は薄く平らで、すぐに熱が回る。
「補給に戻っといて正解だったな……温存してた甲斐があった」
すぐに湯が湧き、ふたりは湯たんぽを抱き、体温とミルクの力に頼りながら息を整えていく。
鍋には干し肉、炒り大麦の粉、バター、乳、塩を少量。ゆっくりとかき混ぜると、スープとも粥ともつかぬ温かな液体が立ち上った。保存食用に麦粉をこね、簡素なバーも並べる。気温の低さが逆に固めてくれるだろう。
カッツがふうふうと息を吹きかけながら、口に運んだ。
「……これ、けっこううまいな」
「でしょ。村のばあちゃんが言ってたの。“吹雪の日は、胃より心を温めな”って」
チトの声は穏やかで、どこか誇らしげだった。あの谷で受け取った言葉を、自分の舌で確かめているように。
カッツは頷き、芯から温められる感覚に目を細めた。
*
数時間後――風の音が、急に変わった。
それまで低く唸っていた音が、ビニールを叩くような乾いた響きに変わったのだ。
チトはテントの布を押さえたまま、息を呑む。
「……風、止んだ?」
カッツも身を起こし、耳を澄ます。
確かにテントを揺らす力は弱まっている。けれど、その静けさは不自然で、耳の奥に逆にざわめきを残した。
「音が変わっただけだ。……上空の風が反転してる。夜半には本番が来る」
チトは唇を噛んだ。だがすぐに顔を上げ、凛とした声で言った。
「じゃあ……準備しよう。火じゃなくて、あたしたちの体温で“しのぐ”準備」
「……おう」
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ふたりは荷物を一箇所に寄せ、冷気を遮る壁を作った。空いた隙間は毛布で覆い、わずかな温もりを逃さぬよう工夫する。
チトは腰のマチェットを脇に置き、寝袋ごと体をカッツに寄せた。
互いの肩が触れ、重なり合う呼吸が小さなテントを満たしていく。
「……なんか、久しぶりだね。こうやって、くっついてるの」
「お前が最近、乳の加工にばっか夢中だったからな」
「それ、あんたもでしょ」
「ははっ、そうだった」
焚き火のない夜。
それでも、ふたりの笑いはかすかな炎のようにテントを温めていた。
声を潜め合うその仕草は、まるで吹雪に聞かれないようにと願う小鳥のさえずりのようで――慎ましく、けれど確かに温かかった。
*
深夜――ついにそれは来た。
テントの布が唸りを上げ、骨組みが軋む。雪が横殴りに叩きつけられ、稜線の木々が悲鳴のように鳴った。
屋台の帆布にも容赦なく雪が積もり、その重みで軽量金属ハイメタル製のフレームが小さく震えているのが、テント越しにも伝わってくる。
カッツは寝袋の中でチトをそっと引き寄せた。
肩越しに伝わる震え。だが、それは寒さだけではないと、すぐにわかった。
「……チト」
「なに」
「お前にだけは……こういうの、味わわせたくなかったな」
彼の声は、吹雪の轟音に消されそうに小さかった。
「お前には、穏やかな場所を、穏やかな時間を、ずっとあげたかった。……マチェットのことも、もう使わずにいられるなら、それが一番いいって」
チトは、その言葉を遮るように、彼の服をぎゅっと掴んだ。
「……知ってる。あたしも、そう思ってる」
「なら……」
「でも、それでも……。あんたとこうして旅してると、怖くないよ。吹雪でも、知らない土地でも。……あたしにどんな過去があっても」
その瞬間、外の音が――しん、と消えた。
耳に痛いほど鳴り響いていた吹雪が、嘘のように静まり返る。
やがて、白い光が布の隙間を透かし、テントの中を淡く染めた。
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朝。
外に出ると、そこには銀の世界が広がっていた。
木々は真っ白に凍りつき、屋台の帆布も雪をまとってきらめいている。
空は驚くほど澄み渡り、群青の向こうに朝日が差し込んでいた。
ふたりは肩を並べ、冷たい空気を吸い込んだ。
「……越えたね」
「ああ」
「寒かった」
「でも、温かかったな」
吐いた息が白く溶け合い、チトはふっと笑った。
カッツもそれに応えるように笑みを返す。
「じゃあ、行こうか。もう少しで……峠の向こうだ」
「うん」
凍てついた轍を一歩ずつ踏みしめながら、ふたりは歩き出す。
その背には旅のすべてを載せた屋台があり、胸には互いへの想いと、越えてきた夜の記憶が息づいていた。




