4章: 第16話 「停滞、撤退」
山を登る風は、日を追うごとに冷たさを増していた。
――ゴォォォ……。
吹き付ける風が、木々の枝をしならせ、雪煙を巻き上げて峠道を舐めるように走る。
昼を少し過ぎたころには、空の色は鈍く濁り、視界の端が白く曇りはじめていた。
グリル・ノマド号の車輪が雪に取られ、重々しいきしみを上げる。
カッツは眉を寄せ、足を止めた。
「……ここまでか。もう進めねぇな」
木製の止め杭を雪に打ち込み、車輪をしっかりと固定する。
峠道には避難小屋ひとつなく、吹きだまりは前方で白い壁のように広がっている。
強引に突っ切れば、命を落としかねない状況だった。
道端には先客が残したらしい、小さな帆布のシェルターが半ば雪に埋もれて揺れていた。
ここが限界点であることを無言で示していた。
「この先……吹きだまりだね」
チトが肩をすくめ、外套のフードが風にあおられる。
吐いた息はすぐに白く凍り、腰のマチェットの鞘にも雪がそっと積もっていく。
ふたりは目を合わせ、ためらいなく決断した。
ここで止まるしかない。
*
ふたりは屋台の下に帆布を張り、手早く薪ストーブを据えた。
この数ヶ月で鍛えられた野営の技が、こういう場面で迷いなく生きる。
ストーブの口から小さな炎が立ち上がり、冷えきった空気をほんの少しだけ押し返していった。
チトは外套を脱ぎ、炎に手をかざす。指先がじんわりと温まり、頬に朱が差す。
そのまま小さく息を吐いて、ぽつりとこぼした。
「……あのさ」
「ん?」カッツが薪を足しながら顔を上げる。
「この感じ……あたし、好きかも」
カッツは眉をひそめる。
「止まるのが?」
「うん。進まなくても怒られない時間。“自然がそう言ってるから”って言い訳ができるの、ちょっとだけ安心する」
言葉の奥には、かつてギルドで常に急かされ、追われるように働かされていた記憶が滲んでいた。
止まることを許される——それが、彼女にとっては新しい救いだった。
カッツはうなずき、柔らかく答えた。
「……それは、いい感覚かもな」
ふと視線をやると、チトは炎に照らされながら、小さな紙片を取り出していた。
それは峠を越えた先にあるという、大草原の民の国の地図だった。
羊や馬を追い、移動しながら暮らす遊牧の民。長い旅路に耐える携行食、そして祈りの谷をも凌ぐと噂される、多彩な乳製品の文化。
チトはその地図を見つめながら、炎越しに微笑む。
「……ねえ、カッツ。この屋台ってさ、どこまで行けるんだろうね」
カッツは遠く、吹雪にかすむ空を見て答えた。
「さあな。でも……俺たちが軽くなれた分だけ、遠くに行ける気がする」
その言葉に、チトはくすりと笑った。
頬には幼さを残しつつも、旅を続ける中で得た大人びた影も差していた。
炎が揺れるたび、彼女の表情にはふたつの色が重なって見えた。
*
夜。帆布の内側にはストーブの赤い炎が揺れ、雪に閉ざされた峠とは別世界のように温かかった。
寝袋にくるまったふたりの間に、ぽつりぽつりと声が行き交う。
「そういえばさ、前に仕込んだ干し肉……あと二枚しかないよ」
「おう。明日、焼き直して食おうぜ。吹雪の祝いだ」
「……なにそれ。意味わかんない」
「うまいもん食って寝て、次の晴れ間を迎えるんだよ。旅人の知恵だ。受け売りだけどな」
チトはふっと笑った。
「……ふふ、なるほどね」
けれどカッツの表情はすぐに引き締まる。
「だが、悠長に晴れ間を待つわけにはいかねぇな。補給に一度戻ろう。これじゃ峠越えは無理だ」
その声に、チトは寝袋の中で小さく頷いた。
「……あんたが言わなくても、言おうと思ってた」
視線が交わる。互いに同じ決断をしていたことに、わずかな安堵が宿った。
「副店長には敵わねぇな」
「ふん……当然」
カッツは苦笑しながら、天井の帆布を見上げる。
「もっと屋台の重量を減らさねぇと……。水と食料は道中で確保できるとしても、整備はあの集落に戻らなきゃだ」
「帰ったら笑われちゃうかな。……でも、またみんなに会えるの、ちょっと嬉しいかも」
「……………」
カッツは言葉を返さなかった。ただその沈黙が、彼女の気持ちを肯定していた。
「……おやすみ、カッツ。明日はいい天気になる気がするよ」
「ああ。おやすみ」
外では雪が唸りを上げていた。
だが帆布の内側には、ストーブの火と、穏やかな寝息と、ほんの少しの灯りがあった。
それはまるで、この先へ続く旅路を守る灯火そのもののように、夜を静かに照らしていた。




