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4章: 第13話 「再出発のレシピ」

 

その朝、集落の空は澄み切っていた。

 雲ひとつない青に、朝靄がうっすらと棚引き、冷えた空気が頬を刺す。

 けれどその冷たさは、昨日の寒波の牙とは違った。張りつめた空気の奥に、どこか新しい道がひらけていくような気配があった。

 ——村の老人たちは、こんな朝を「旅立ちの空」と呼ぶという。


 カッツは屋台のフレームを丁寧に点検し、磨き直した鉄具の締めを一つひとつ確かめていた。

 灰を掻き出す手の動きは無駄がなく、長い旅の経験で染みついた習慣そのものだ。

 チトは最後の荷造りを終え、布で包んだナンをきゅっと縛る。

 その布の繊維には、昨日小屋で守り抜いた火の匂いがまだ微かに残っていた。


「……これで、全部だね」

「おう。……軽くなったな」

「うん。重さも、気持ちも」


 ふたりの足元には、旅支度を終えた《グリル・ノマド号》が静かに待っていた。

 新しい小型サスペンションは雪の坂道でもしなやかに動き、磨かれたフレームは朝陽を受けて青白く光っている。

 荷台に積まれているのは最低限の道具と——干し肉、バター、ミルク、そして帳面。

 どれもが、この冬を越えるために火を守り抜いた証であり、次の土地へ運ぶ灯の種だった。




 その夜。

 出発前の最後の夜だというのに、屋台の火は小さく灯っていた。

 ふたりは少しだけ焼き残した肉を炙り、湯にチーズを溶かして静かに口を温めていた。

 炎の明かりが鉄板の影を揺らし、積み上げた荷の輪郭を淡く浮かび上がらせる。


「……あんた、帳面の最後に何か書いてたでしょ」

 チトが問いかけると、カッツは照れくさそうに目を逸らした。


「ああ……ちょっとな。『ここで作った味の配合、二度と忘れないように』ってな」

 ぶっきらぼうに言うが、その手元にはまだ熱が残っているようだった。炭で黒く汚れた指が、紙に記した文字を大事に守っている。


「ふうん……」

 チトは小さく笑い、そっと肩を寄せた。

「じゃあ、それ、わたしも一品、追加していい?」


「おう。副店長の推薦メニュー、ちゃんと記録するよ」

 カッツが軽く肩を揺らすと、チトは少しむっとした顔で筆を取った。

 けれど、口元はどこか誇らしげに緩んでいた。



 しばらくして、ふたりはノマド号の後ろにある小さなテーブルで黙々と書き物をしていた。

 夜風がときおり吹き抜け、焚き火がかすかに揺れる。紙の端がばさりと鳴り、その音がやけに静かな夜を強調した。


 そのとき、カッツの耳に「ガサッ」という音が届いた。

「……ん?」


 振り向くと、屋台の脇に小さな影が三つ。背を丸め、こそこそ忍び込む姿。


「……おい、そこのチビども」

「……バレたー!」

「しーっ! 静かにしろってば!」


 慌てて口を押さえる子どもたち。祭りで見かけた顔の中に、例の少女・サナも混じっていた。

 チトが立ち上がり、焚き火の赤に照らされながら近寄る。


「……どうしたの? こんな時間に」


 サナはためらいながらも一歩前に出て、チトの目を真っ直ぐ見つめた。

「……あのね、レシピ帳の……ひとつだけ、まねしてもいい?」


 その声は小さく震えていたけれど、瞳は迷っていなかった。


「わたし、味のことはよく分かんないけど……あのお姉ちゃんの作ったやつ、“食べたら泣いちゃうくらい嬉しかった”ってことだけ、すごくよく覚えてるから」


 チトは一瞬言葉に詰まり、胸の奥がちくりと熱くなるのを感じた。

 ——昔の自分なら、火を奪うことでしか生きられなかった。

 今は、その火で誰かが涙を流すほど喜んでくれる。


 ゆっくりと頷いたチトは、柔らかく答えた。

「……いいよ。でも、“そのまんま”じゃなくてね。必ず“あなたの手で作ったもの”に変えてから、誰かに出すこと。いい?」


「うん……!」


 サナの瞳がぱっと明るくなった。

 チトはページを一枚ちぎり、端に小さくこう記した。


『この味が、次の誰かの心を灯せますように。――チト』



 翌朝。

 集落の空気はさらに澄み、軒先の氷柱が陽を受けてきらきらと光っていた。

 ふたりは《グリル・ノマド号》を引きながら、ゆっくりと村を抜けていく。


 家々の窓からは煙が細く立ち上り、凍てつく空気に溶けていく。

 石畳の端では、昨日と同じ子どもたちが身を寄せ合って立っていた。

 サナが胸に抱えているのは、チトから渡された紙切れ。

 目が合うと、彼女は恥ずかしそうに笑って、小さく手を振った。

 それに続くように、後ろの子らも両手を振る。


 チトは足を止めかけたが、すぐに歩を進める。

 胸の奥で小さな火がくすぶるように温かい。

 ——もう、この灯は自分だけのものじゃない。


 白い息を吐きながら進むノマド号の荷台には、干し肉、バター、ミルク、帳面。

 けれどその重みは、昨日よりもずっと軽く感じられた。


「……カッツ」

「うん?」

「レシピ帳、軽くなった気がする」


「それ、何ページか子どもに盗られたからだな」

「……うるさい」


 短いやりとりのあと、ふたりは思わず笑った。

 その笑い声が、凍てついた朝の空気を少しだけやわらげていく。


 背後には昨日と同じ家々、昨日と同じ朝陽。

 だが今日からはもう「旅の続き」だ。


 道は白い靄の向こうへ伸びている。

 火も、命も、味も——すでに次の誰かの心に渡されながら。




ここまで読んでいただきありがとうございます。

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