表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
41/152

4章: 第12話 「風の夜をこえて」

 ミルク祭の夜。村にはまだ笑い声や太鼓の余韻が漂っていたが、広場を包む空気は次第に落ち着きを取り戻しつつあった。

 石畳にこぼれた乳酒の香りが漂い、家々の窓から洩れる灯りはひとつ、またひとつと小さくなっていく。


 屋台の片付けも一段落し、チトは干し肉の箱を布で覆い、風除けの板を立て直していた。

 炭の残り火は、心臓の鼓動みたいにちろちろと明滅している。


「おつかれさん。今日の売上、けっこう良かったぞ」

 カッツが帳面を片手に笑う。記された銅貨の数字は、思ったよりずっと多かった。


「……ま、今日のは特別だから」

「そうだな」


 ふたりは目を合わせ、短く笑みを交わす。湯を沸かそうと鉄瓶を掛けたその瞬間――


 ゴォォォォォ――ッ!


 突風が谷を揺らし、屋根や柵をきしませながら怒鳴り込んできた。

 村では古くから「二度目の寒波は命の火を吹き消す、山の神の息吹」と言い伝えられている。

 それは、谷を越える者たちが恐れてきた“死の風”だった。


「ちっ……またかよ!」


 帆布が悲鳴を上げ、鉄具ががたがたと震える。焚火の炎が一瞬で煽られ、赤い火の粉が宙に舞った。


 チトはすぐに駆け、ナンを寝かせた籠を抱え込む。肩に力を込めても、氷の刃のような風が頬を裂き、肺に突き刺さる。

 指先は氷に噛まれるように痺れ、布越しでも熱が逃げていくのがわかる。


「これ、前より強い! 冷たさが違う!」

「寒波だ……谷風が一気に落ちてきてる!」


 鉄板が軋み、屋台の灯が危うく揺れる。

 心臓がドクンと跳ね、チトは息を荒げながら必死に板を押さえた。


「火、消したらもう……干し肉も、発酵も全部パーだよ!」

「わかってる!」


 カッツはグリル・ノマド号のストッパーを蹴り込み、チトは布を巻き直して焚火台を軒下へ。

 木箱を積み上げ、必死で風を遮ろうとする。


 だが突風は容赦なく隙間を狙い、積んだ板を押し倒そうとした。

 チトの手が鍋の縁に触れた瞬間、冷えきった鉄が肌を刺した。


「あ……」

 指が痺れて震えている。


「チト、下がれ! 危ねぇ!」

「……平気」

「平気じゃねぇよ!」

「でも――守らなきゃ」


 風が唸り、視界を奪う中で、彼女の声だけは強く響いた。




 どうにか火と鍋を小屋の中へ運び込み、分厚い毛布をかぶって肩を寄せた。

 外では屋根板がきしみ、雪混じりの突風が獣のように唸り続けている。


 白い息がゆらりと立ちのぼり、冷気と炎の熱がせめぎ合った。


「……なんで、こんなに寒いのに」

 チトは震える手で湯呑を押さえながら、ぽつりとこぼす。

「ここの人たち、あったかい料理ばっか作るんだろ」


「……そりゃあ……寒いからだろ」

「そうじゃなくて……心が、寒いの知ってる人の味がする」


 その言葉は、彼女自身の過去をかすかに映していた。

 かつてギルドにいた頃、チトは“火を奪う側”だった。誰かの食卓を壊し、灯を消すことが役割だった。

 それが今、必死で火を守っている。指先の震えは、寒さだけじゃない。


 カッツはその横顔をじっと見た。

「……お前がそう言うなら、きっとそうなんだ」

 そう言いながらも、その声にはどこか優しさが滲んでいた。


 チトは毛布を握りしめ、内心で苦笑した。

(あたしが守るなんて……昔なら、笑い話だ)



 外の風がまた小屋を揺らした。木板が唸り、雪が窓を叩きつける。

 カッツは焚火に薪を足しながら、ちらりとチトを見やる。


「チト、もう下がってろ。火は俺が見る」

「いや」

 彼女は首を振った。

「これは、あたしがやる。……守るのは私の役目だ」


「守らせたくねぇんだよ、俺は」

 カッツの声が低く強まる。

 けれどその言葉に、チトは小さく笑った。


「……ばか。守られるだけなんて、嫌だ」


 一瞬、ふたりの視線がぶつかる。

 外の轟音が遠くなるほど、火を囲むこの狭い空間は熱を帯びていた。


 やがてカッツは息を吐き、肩をすくめた。

「……強情だな」

「そっちこそ」


 互いに引かないやり取りは、やがて同じ毛布の下で並んで座ることで収まった。

 その沈黙は、争いではなく、奇妙な安心感を連れていた。




 小屋の中、火はまだ生きていた。

 鍋の中でスープがゆっくりと回り、乳白色の表面がやわらかく揺れる。

 その甘い香りが、張りつめていた胸の奥を少しずつほぐしていく。


 チトは両手で湯呑を抱え込み、炎の明かりを映したまま呟いた。

「ねえ、カッツ。あたし……屋台に出会ってよかったと思ってる」


「……ん?」

「出会ってなかったら、こんなふうに火を囲んだり、乳の匂いで眠ったり、干し肉で泣いたりなんて、きっとできなかったと思う」


 言葉は淡々としていたが、瞳は素直な光を帯びていた。

 カッツは少し照れたように肩をすくめ、火越しに笑う。

「……じゃあ俺は、お前に“出会えて”よかったと思ってる」


「なにそれ。ずるい」

「はは、ごめん」


 ふたりの笑みは一瞬で消え、また沈黙が落ちた。

 けれどそれは気まずさではなく、互いを包む柔らかい沈黙だった。



 外では風がまだ獣のように吠えている。黒い闇が板壁を叩き、雪が窓を白く曇らせる。

 だが小屋の内側には、別の世界があった。


 毛布の下で肩が触れ、体温がじんわりと伝わる。

 火は消えかけの小さな灯にすぎないのに、その明かりは夜のすべてを押し返すかのように心強かった。


 ミルクの香りは、冷えきった胸を覆う布のようにやさしく広がる。

 その甘さに瞼が落ち、チトの呼吸はやがて静かな寝息へと変わっていった。


 カッツは火を見守りながら、そっと毛布を引き寄せる。

「……おやすみ、相棒」


 外の世界はなお荒れ狂っていた。

 だが、この小さな空間にあるのは寄り添う体温と、消えない火と、ミルクの香り。


 ――屋台も、命も、灯も。

 すべてが守られたまま、風の夜をこえていった。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ