4章: 第12話 「風の夜をこえて」
ミルク祭の夜。村にはまだ笑い声や太鼓の余韻が漂っていたが、広場を包む空気は次第に落ち着きを取り戻しつつあった。
石畳にこぼれた乳酒の香りが漂い、家々の窓から洩れる灯りはひとつ、またひとつと小さくなっていく。
屋台の片付けも一段落し、チトは干し肉の箱を布で覆い、風除けの板を立て直していた。
炭の残り火は、心臓の鼓動みたいにちろちろと明滅している。
「おつかれさん。今日の売上、けっこう良かったぞ」
カッツが帳面を片手に笑う。記された銅貨の数字は、思ったよりずっと多かった。
「……ま、今日のは特別だから」
「そうだな」
ふたりは目を合わせ、短く笑みを交わす。湯を沸かそうと鉄瓶を掛けたその瞬間――
ゴォォォォォ――ッ!
突風が谷を揺らし、屋根や柵をきしませながら怒鳴り込んできた。
村では古くから「二度目の寒波は命の火を吹き消す、山の神の息吹」と言い伝えられている。
それは、谷を越える者たちが恐れてきた“死の風”だった。
「ちっ……またかよ!」
帆布が悲鳴を上げ、鉄具ががたがたと震える。焚火の炎が一瞬で煽られ、赤い火の粉が宙に舞った。
チトはすぐに駆け、ナンを寝かせた籠を抱え込む。肩に力を込めても、氷の刃のような風が頬を裂き、肺に突き刺さる。
指先は氷に噛まれるように痺れ、布越しでも熱が逃げていくのがわかる。
「これ、前より強い! 冷たさが違う!」
「寒波だ……谷風が一気に落ちてきてる!」
鉄板が軋み、屋台の灯が危うく揺れる。
心臓がドクンと跳ね、チトは息を荒げながら必死に板を押さえた。
「火、消したらもう……干し肉も、発酵も全部パーだよ!」
「わかってる!」
カッツはグリル・ノマド号のストッパーを蹴り込み、チトは布を巻き直して焚火台を軒下へ。
木箱を積み上げ、必死で風を遮ろうとする。
だが突風は容赦なく隙間を狙い、積んだ板を押し倒そうとした。
チトの手が鍋の縁に触れた瞬間、冷えきった鉄が肌を刺した。
「あ……」
指が痺れて震えている。
「チト、下がれ! 危ねぇ!」
「……平気」
「平気じゃねぇよ!」
「でも――守らなきゃ」
風が唸り、視界を奪う中で、彼女の声だけは強く響いた。
*
どうにか火と鍋を小屋の中へ運び込み、分厚い毛布をかぶって肩を寄せた。
外では屋根板がきしみ、雪混じりの突風が獣のように唸り続けている。
白い息がゆらりと立ちのぼり、冷気と炎の熱がせめぎ合った。
「……なんで、こんなに寒いのに」
チトは震える手で湯呑を押さえながら、ぽつりとこぼす。
「ここの人たち、あったかい料理ばっか作るんだろ」
「……そりゃあ……寒いからだろ」
「そうじゃなくて……心が、寒いの知ってる人の味がする」
その言葉は、彼女自身の過去をかすかに映していた。
かつてギルドにいた頃、チトは“火を奪う側”だった。誰かの食卓を壊し、灯を消すことが役割だった。
それが今、必死で火を守っている。指先の震えは、寒さだけじゃない。
カッツはその横顔をじっと見た。
「……お前がそう言うなら、きっとそうなんだ」
そう言いながらも、その声にはどこか優しさが滲んでいた。
チトは毛布を握りしめ、内心で苦笑した。
(あたしが守るなんて……昔なら、笑い話だ)
⸻
外の風がまた小屋を揺らした。木板が唸り、雪が窓を叩きつける。
カッツは焚火に薪を足しながら、ちらりとチトを見やる。
「チト、もう下がってろ。火は俺が見る」
「いや」
彼女は首を振った。
「これは、あたしがやる。……守るのは私の役目だ」
「守らせたくねぇんだよ、俺は」
カッツの声が低く強まる。
けれどその言葉に、チトは小さく笑った。
「……ばか。守られるだけなんて、嫌だ」
一瞬、ふたりの視線がぶつかる。
外の轟音が遠くなるほど、火を囲むこの狭い空間は熱を帯びていた。
やがてカッツは息を吐き、肩をすくめた。
「……強情だな」
「そっちこそ」
互いに引かないやり取りは、やがて同じ毛布の下で並んで座ることで収まった。
その沈黙は、争いではなく、奇妙な安心感を連れていた。
*
小屋の中、火はまだ生きていた。
鍋の中でスープがゆっくりと回り、乳白色の表面がやわらかく揺れる。
その甘い香りが、張りつめていた胸の奥を少しずつほぐしていく。
チトは両手で湯呑を抱え込み、炎の明かりを映したまま呟いた。
「ねえ、カッツ。あたし……屋台に出会ってよかったと思ってる」
「……ん?」
「出会ってなかったら、こんなふうに火を囲んだり、乳の匂いで眠ったり、干し肉で泣いたりなんて、きっとできなかったと思う」
言葉は淡々としていたが、瞳は素直な光を帯びていた。
カッツは少し照れたように肩をすくめ、火越しに笑う。
「……じゃあ俺は、お前に“出会えて”よかったと思ってる」
「なにそれ。ずるい」
「はは、ごめん」
ふたりの笑みは一瞬で消え、また沈黙が落ちた。
けれどそれは気まずさではなく、互いを包む柔らかい沈黙だった。
⸻
外では風がまだ獣のように吠えている。黒い闇が板壁を叩き、雪が窓を白く曇らせる。
だが小屋の内側には、別の世界があった。
毛布の下で肩が触れ、体温がじんわりと伝わる。
火は消えかけの小さな灯にすぎないのに、その明かりは夜のすべてを押し返すかのように心強かった。
ミルクの香りは、冷えきった胸を覆う布のようにやさしく広がる。
その甘さに瞼が落ち、チトの呼吸はやがて静かな寝息へと変わっていった。
カッツは火を見守りながら、そっと毛布を引き寄せる。
「……おやすみ、相棒」
外の世界はなお荒れ狂っていた。
だが、この小さな空間にあるのは寄り添う体温と、消えない火と、ミルクの香り。
――屋台も、命も、灯も。
すべてが守られたまま、風の夜をこえていった。




