4章: 第10話 「ミルクの灯火」
それは、突然のことだった。
夜半すぎ、強風が山の尾根を駆け下りてきた。凍てついた空気が一気に流れ込み、集落全体がざわついた。
「風が変わるぞ!ミルクと火を守れ!」
宿の主が叫ぶ。厨房の焚火、屋台の乾燥具、バターを寝かせた倉の扉。すべてが、風に吹き飛ばされる寸前だった。
「チト、こっちだ!」
「うん――ミルク樽、押さえて!」
風よけの土壁小屋へ、ふたりは走った。抱えたままの壺から、白い乳がぴちゃりと手にこぼれる。
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「……とりあえず、ここなら安全かも」
小屋の奥、ふたりは手近な毛布と布袋で囲炉裏の周りを整え、火を灯した。
カッツがくべた薪に火がつくと、ぱちぱちと音がして明かりが広がっていく。
「……ふぅ」
「疲れたな。お前、乳の壺守るのに全力だったな」
「当然。落としたら今日の発酵、全部無駄になるもん」
「命が宿ってるってわけだな」
「うるさい」
笑い合って、ふたりは囲炉裏の両端に座った。
しばらくして――火の音だけが、静かに部屋を包む。
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「……こういう時、さ」
チトがぽつりと口を開いた。
「ちょっとだけ、“昔”のこと、思い出すんだよね」
「……」
「小さいころ、父さんとよく台所の火を囲んでて」
「母さんは?」
チトは、ほんの少しだけ首を振った。
「父さんも多くは話さなかった。でも、“こうして火を囲むのが、母さんが喜ぶことなんだ”って、よく言ってた気がする」
カッツは黙って聞いていた。
「台所の火って……こんなにあたたかいのに、なんであの頃の私は、どこか心細かったんだろうって思う。火を分けても、分けても……自分の中は満ちなくて。灯す火が、いつも外にばかり向いていたから、なのかもしれない」
「……それは、お前が“子どもだった”からかもな。分ける火の重さは、大人になってからじゃないと分からないこともある」
「……そうかも」
火が、少しだけはぜた。
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「でも、今は違うよ」
「ん?」
「今日のミルク。今日の火。……今日のカッツと一緒にいる、あたし」
チトは、火に照らされた顔をふとカッツに向ける。
「ちゃんと、あったかいって思えるから」
それは、照れも虚勢もない――まっすぐな言葉だった。
カッツは、それに答えるように火を見たまま呟いた。
「だったら、今夜はその火を守ろうな。誰にも奪わせねぇように」
「……うん」
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夜は長く、そして静かだった。
火の灯りの中、ミルクの壺とふたりの心だけが、ぽつりと残っていた。




