4章: 第4話 「スゥトとウルの仔」
朝の牧場は、白い霧に包まれていた。
吐く息も霧に溶けて消え、冷たい空気が肌を刺す。
チトは外套の袖を握りしめながら柵の前に立った。
昨日見かけた子ヤクが、今日も同じ場所にいる。母ヤクの背にぴたりと寄り添い、黒曜石のような瞳でこちらをじっと見ていた。
「……おはよう」
チトは小さく声をかけ、ゆっくりと手を伸ばした。
子ヤクは一瞬たじろいだが、やがて前足を踏み出し、警戒を解くように近づいてきた。
「名前、つけてもいいって言われたよね」
指先が毛並みに触れる。ふわりとした温もりに、チトの表情がやわらぐ。
「母親がウルで、父親がスゥト……だから“スゥル”って思ったけど」
子ヤクがくるりと鼻を鳴らした。
「……うん、やめとく。スゥトとウルの子だから……“スウ”。」
そう言って、チトは小さく微笑んだ。
「スウ。おはよう。今日から、あんたはスウ」
子ヤクはまるで答えるように、こくりと首を動かした。
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同じころ、集落の広場では《グリル・ノマド号》に火が入っていた。
炭火の音、香ばしい匂い、揺れる白煙。
「このチーズを溶かしたジャイロ……」
「肉が柔らかいのに、香りがしっかり残ってる……」
地元の酪農親父たちが言葉少なに驚き合う。
子どもたちまで列を作り、頬張った顔に笑みが広がった。
鉄板の前で手を動かし続けながら、カッツは短く言った。
「……素材が強い。火が勝手に応えてくれるだけだ」
沈黙のあと、ひとりがふと尋ねた。
「このソース……娘の手か?」
「……ああ、副店長の仕込みだ」
カッツはそれ以上は言わず、再び肉を返した。
親父たちは互いにうなずき合い、黙ってジャイロにかぶりつく。
その横で、子どもたちが列をつくり、熱々のジャイロを頬張っている。笑顔の波を見渡しながら、カッツはふと手を止めた。
「……こうして人が集まって、笑って食ってるの。久々に“火を渡せてる”気がするな」
その穏やかな熱気は、広場全体をひとつに包みこんでいった。
*
夕方。牧場に戻ったチトは、壺を抱えていた。
中には、スウの母ウルから搾ったばかりの乳。
「ありがとう、ウル。スウのことも、あたしが見てるから」
ヤクの親子は身を寄せ合ってうずくまっていた。
チトは小さく微笑み、「明日も来るね」と囁いた。
*
夜。チトが戻ってきた宿の食堂では、カッツが腕を組んでいた。
「……結局、一番評判がよかったのはチトのチーズソースだ。久しぶりに火を届けられた気がしたよ。悪くねぇな」
チトは壺をテーブルに置きながら、視線を逸らす。
「……ふーん。でも、ちょっと嬉しい」
そう呟く声は小さく、頬はわずかに赤かった。
「明日、これでデザート……作ってよ」
「……承知しました、副店長」
カッツがわざと大げさに頭を下げる。
「そういうのがうるさいの」
チトの口元はほんの少しだけ緩んでいた。
屋台の火がぱちりと弾け、夜風が二人の間をすり抜けていった。




