4章: 第1話 「祈りと乳の地」
貨物列車の警笛が、切り立つ山あいの谷にこだました。
鉄の巨体は唸りを上げながら、急勾配の山道をゆっくりと登っていく。積荷のなかには、明らかに異質なものが一つ――ハイメタル製の四輪屋台《グリル・ノマド号》。奪われ、組み直され、再び彼らの手に戻ってきた相棒だった。
カッツは車体の横に腰をかけ、肘をついて外を見やった。
窓外には見慣れぬ世界が広がる。白く霞む稜線、岩肌にしがみつくような段々畑、陽光に照らされてきらめく山間の家々。風に揺れるのは高山植物。町も畑も、すべてが空に近い。
「……すごいとこまで来たな」
独り言のように漏らすカッツの声に、背後から静かな声が返ってきた。
「標高、たぶんもう三千近い。空気が、薄いね」
チトだった。緑のコートの襟をぎゅっと掴みながら、カッツの横に腰を下ろす。髪を留める赤い細ヘアバンドが、ちらりと揺れた。
「でも……この空気、好き。すん、としてて」
その言葉にカッツはふっと笑う。
「お前って、この電車乗ってからずっと『悪くない』って顔してるよな。俺が寝てる間に全部チェック済みか?」
「うっさい。あんたが寝てる間に、景色はぜんぶ見といたから。説明するために見てただけだし」
むっとしたように言い返すチトの目は、窓の外の斜面を追っていた。そこには放牧されたヤクの群れが見える。もこもことした長毛が風に揺れ、のそのそと歩く姿はどこか穏やかだった。
「あれ、乳が採れる。牛とは種類、違うけど」
「ヤク、ってやつか」
「……たぶん。……かわいい」
思わず洩らした小さな一言を、彼女は赤い髪紐をいじって誤魔化した。
カッツは横目で見て、口元を緩める。
「お前でも、かわいいなんて言葉使うんだな」
「黙って。もう着くから、荷物の支度早くして」
そのとき、通路を駆け抜ける車掌の声が響いた。
「まもなく到着です! 荷降ろしはお早めに!」
カッツは立ち上がり、グリル・ノマド号の車体を軽く叩いた。
「……さあ、お前もそろそろ起きろ。次の旅は、しばらく“動かない”旅だ」
⸻
列車を降りた瞬間、冷たい高山の空気が頬を刺した。
焚かれた香木の匂い、足元をすり抜ける山風。
人々の祈りの声は、どこか鈴の音のように耳に残った。
降りた駅は、まるで神殿のような作りだった。尖塔のように伸びる屋根、木彫りで刻まれた祈りの文様。人々は静かに荷を背負い、口々に短い祈りを唱えながら去っていく。
「祈りの地って、ほんとだったんだな」
カッツが呟くと、チトは荷を担ぎ直してぼそりと返す。
「この土地じゃ、乳も、命も“授かりもの”。祈ってから使うのが礼儀なんだよ」
そう言ったとき、チトはふと足を止めた。
視線の先には、小さな子供が母親と一緒に、白い布をヤクの背にかけている光景。ヤクはおとなしくうずくまり、その手を受け入れていた。
「……やさしい目してる。あの子も、ヤクも」
チトの声は少し震えていた。
その横顔を見て、カッツは空を仰ぐ。
切り裂くような山の青に、澄んだ静けさが広がっていた。
「……いいな。こういうの。ちょっとの間、ここに留まってみるか」
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