1章:第3話 「ギルド」
チトに連れられて、カッツは「ギルド」と呼ばれる施設の前に立っていた。
建物は灰色の石造りで、厚い壁に小さな窓が穿たれている。
看板には三又の剣のようなマーク。木製の扉の向こうからは、笑い声と怒号、そして金属のぶつかる高い音が漏れてきた。
「ここが、あたしの行きつけのギルド」
チトは小さく言い、カッツの服装と雰囲気を一瞥して眉を寄せた。
「……目立つな、あんた」
「はは、すまん。異世界仕様じゃないからな。俺の服はどこ行っても浮くらしい」
チトはふっと小さく笑った。
カッツがこの世界に来てから、初めて見せたやわらかな表情だった。
ギルドの中は、喧騒と酒の匂いと、獣脂の焦げた香りが渦を巻く空間だった。
奥の炉では肉が串ごと焼かれ、隅のテーブルでは地図を広げた男たちが真剣な声を交わしている。
壁一面の掲示板には、羊皮紙に書かれた依頼が並ぶ。「狼の討伐」「迷い子の捜索」「荷運びの護衛」――紙の端は何度も剥がされ、また釘で打ち直された跡があった。
チトは受付に話をつけると、手早く書類を二枚持って戻ってきた。
「仮登録。あたしが保証人になった。……感謝しろ」
「言われなくても感謝してるよ。ほんとにな」
「ふん……」
その様子を、周囲の男たちがちらりと見た。
ナイフをぶら下げた物騒な格好の女、筋骨隆々の斧を携えた男、商人風の一団。
「……なんだあの変な服のやつ」「チトの隣にいたな」「初対面で保証人って、珍しくねぇか?」
カッツは気づかぬふりをしたが、確かにその視線の重さは感じていた。
その夜、ギルドの脇にある広場で、チトはぼそっと言った。
「……あたしが保証人になったことで、余計な詮索も増える」
「悪い。迷惑だったか?」
「そうじゃない。……けど、あたしに近づくやつは大体、見返りを期待してる。……けど、あんたは」
その先を言わずに、チトは肩をすくめた。
「ま、いっか。明日、食材でも見に出るよ。まずは“市場”の視察だ。商売、するんでしょ」
翌朝。
市へ向かう途中の石畳の路地裏で、二人はひとりの少女に出会った。
少女はボロの上着をまとい、小さな花籠を抱えていた。
籠の中には、朝露を吸った白い花が十数輪、ひっそりと咲いていた。
「お、お兄さん、お姉さん……お花、いかがですか……? 一輪で、銅貨一枚……」
チトが足を止める。
「……カッツ、悪いけど銅貨ある?」
「ああ、あるけど……ってお前がさっきくれたやつだぞ?……食材の資金が先じゃないのか?」
「うるさいな……一本でいいから」
チトは少女の手から、白い小さな花を受け取った。
その花は、指先に乗せるとほのかに土の匂いがした。
そしてそっとカッツのシャツの胸元に差し込む。
「似合うかは知らないけど。あたしの“見立て”ってやつ」
少女は目をぱちくりとさせた後、破顔した。
その笑顔は、何かを忘れていたチトの胸をじんわりと満たすものだった。
「ありがとう、お姉さん! また来てくれる?」
「……また、気が向いたらね」
その日、二人は街の市場を歩いた。
香草の山、見たことのない果物、干し肉、野菜に似た植物……
小麦粉に似た粉が袋で売られているのを見つけ、カッツは目を輝かせる。
「これでパンが焼ける。いや、ナンかな……あと、鶏に近い肉があれば、ギリシャのジャイロ風に……」
「ジャイロ?」
「ギリシャの……いや、こっちの話だ」
市場の喧騒の中、チトは「ふうん」とだけ返し、少し離れて歩き始めた。
その口元は、ふっと、ほんの少しだけ笑っていた。
夜。
チトは宿の自室で、窓辺に座りながら、小さくつぶやいた。
「……まったく、面倒なやつに関わっちゃったな」
そう言って見上げた先には、異世界の月。
丸く、冷たく、それでも静かに光を投げかけてくる。
胸の奥に、焚き火の余熱のような感覚が残っていた。
それは、まだ誰にも知られない、ほんの小さな――火種だった。