3章: 第10話 「火を渡すな、火を返せ」
「また会ったな」
男の声は、背後から静かに届いた。____
屋台の灯りがほんのり揺れていた。鉄板の上では、ナンがじりじりと焼けている。
チトは、作業をしながらゆっくりとそのまま背を向けた。
「ルキア……」
「よう。まさかこんな場所で、ジャイロを焼いてるとは思わなかった」
黒い上着の男は笑う。その声には皮肉と懐かしさが混じっていた。
「“火を届ける”だの、“自由な商売”だの。あの頃のお前からは、想像もできないな」
チトは答えなかった。ただ、鉄板の上でナンを返し、鶏肉を乗せた。ジュッと油が弾けた。
「何の用?」
「確認しに来ただけだ。お前がまだ“火を回収できる”かどうかをな」
ルキアの視線が鋭くなる。チトはそのまま振り返らない。
「ギルドはまだ残ってる。火の管理も、記録も、分配も、今なお続いてる」
「……」
「お前が逃げても、こっちにはまだ“クロエの名前”で残ってる。戻ってこいよ。やるべきことは、こっちにある」
チトの手が止まる。その指が、鉄板の端をなぞった。
「戻る気はない」
「じゃあ聞く。あのときの火は、なんだった?」
「……奪うための火だった」
チトの声は、低く、小さかった。
「誰かの口じゃなくて、記録の中で燃えるだけの火。味も、記憶も、何も残さない──ただの数字」
ルキアの眉が動く。
「じゃあ今はどうだ。街の裏通りで、名もなくナンを焼いて……それが“お前の火”か?」
「そうだよ」
チトは鉄板の上のナンを一枚手に取った。肉を乗せ、仕上げに刻んだ野菜と、ハーブを添える。何も派手なものはない。けれど、その一食には“今のチト"が入っていた。
「ギルドの火は、配るだけだった。巻き上げて、集めて、また配って……でもこの屋台は──火を“届けたい”からやってる」
カッツが無言で後ろから出てきた。ルキアに視線を向ける。
「話は終わりか? うちの副店長は、焼き上がりに集中してるんでな」
「副店長、ね」
ルキアが鼻で笑った。
「変わったな。あの頃の“彼女”なら、今ごろ刃を抜いてた」
「その手は、自分で止めたんだ」
カッツの言葉に、チトがわずかに目を見開いた。
「こいつは、もう焼く人間だ。刃で返すんじゃなくて、火で返す」
ルキアの目が細まる。
「……なら、その火を食わせてみろ」
チトは、ジャイロを包んだ。それをひとつ、ルキアの前に差し出す。
一瞬、静寂が落ちた。
ルキアは受け取る。口に運び、ゆっくりと噛みしめる。
「……案外、旨いな」
「味は薄いかもしれない。けど、これは“記録じゃない火”だよ。ちゃんと、誰かの記憶に残る火だ」
ルキアは短く息を吐いた。
「なるほどな……」
そう言って背を向けた。
「焼き続けるのは、簡単じゃないぞ」
「分かってる」
「…また来るよ。気が変わったらいつでも歓迎するからな。……火の店主さんも、それまでお元気で」
遠ざかっていく背中を見ながら、チトはナンをもう一枚、鉄板に並べた。
今度は、少しだけ火を強くして。
*
「……あたし、さ」
火を見つめながら、チトがぽつりと呟く。
「また、誰かの火を“奪う側”に戻るのが怖かったんだと思う」
「でも、“渡せる火”があるなら、たぶんあたしは、今のままでいい」
カッツはうなずいた。
「…お前が自分一人で導き出したそれが答えだと、俺は思うよ」
ふたりの間には、今夜もじり……と焼ける音が鳴っていた。




