3章: 第5話 「消せない火」
昼の夜市は、影の方が濃い。陽光の下であっても、誰がどこで何を売るかは曖昧で、人と火と物音だけが、密集した建物の隙間から漂ってくる。
その迷路を、今日もふたりは歩いていた。背には鍋と布。手には、焼き前のナン生地入りカゴ。
「カッツ」
「ん?」
「……この火、いつまで灯せると思う?」
「材料の話か? 気力の話か?」
「……どっちも」
鍋の底にこびりついた焦げを落としながら、チトは目を伏せた。
カッツは少しだけ笑って、空を見上げた。
「火ってのはさ、理由があれば、意外と消えないもんだよ。逆に、“何のために焼いてるか”が分からなくなったら……すぐに消える」
「……理由が、あるうちは?」
「灯せる。たとえば──」
カッツはチトの横顔を見た。
「昨日、お前が包んで渡したジャイロ。あれが理由になった。“なんで焼いてるか”ってやつのな。……火が、誰かに届いた気がしたよ」
チトは、帽子のつばを深くかぶった。
けれど、その頬の線は、昨日よりもやわらかかった。
*
夕方、ふたりは崩れかけたアーチの下に店を広げた。とはいえ屋台はまだない。布を敷き、鍋を並べ、道端の石や板を組んで机代わりにするだけの、即席営業だった。
「焼けるな、ここ」
「風も少ないし、匂いも広がりそう」
ふたりは慣れた手つきで焼き始めた。鉄板の上、ナンの焦げ目がゆっくりと浮かびあがり、その上にチトが香草と鶏肉をのせて巻く。
「その包み方──港で最初に試したな、覚えてるか?」
「試作の頃。あのときはただ“焼けたから渡す”ってだけだった」
「でも今は?」
チトは、巻いたジャイロをひとつ手に持って言った。
「“誰が食べるか”を考えてる。食べやすさとか、持ちやすさとか、味が混ざる順番とか」
カッツは、その包みを見てふっと笑う。
「……じゃあ、これはもう“ただの包み”じゃねぇな。俺たちの──“ジャイロ”だ」
チトは、驚いたように彼を見た。
「名前、つけるの?」
「火には名前はいらねぇ。でも──“届ける形”には、名前がいる。そう思っただけさ」
チトはゆっくりとうなずいた。
そのとき、路地の端からあの香辛料屋の男がやってきた。
「また焼いてたか。……匂いで分かるようになった」
「客か?」
「悪いな。今日も知らせだ」
男はポケットから小さなスパイス袋を取り出し、ふたりの前に置いた。
「ただの礼だよ。……でも、それともうひとつ。あんたらの火、“無所属のままじゃ危うい”って噂が回ってる」
「またギルドか?」
「ギルドだけじゃない。この夜市は、“火を囲いたがるやつ”が多すぎる。理由があっても、名前がなきゃ消される。誰の火か分からないものは、守られない」
チトが小さく問う。
「……名前をつければ、守ってもらえるの?」
「少なくとも、“誰の火か”を明確にすることは、誰かにそれを守らせるきっかけになる。名乗るってのは、“責任と居場所を持つ”ってことさ」
それだけ言って、男はスパイスの香りを残して去った。
火を見つめながら、カッツがぽつりと言う。
「名前か……。KATZ’S GRILLって屋号はあるけど、それだけじゃ足りない気がしてきた」
チトはナンを巻きながら、そっと答えた。
「……私、自分の名前で灯せてる気がしない」
「でも、お前が巻いた。“誰のために焼くか”を考えて渡した。だから──火が、強くなったんだと思うよ」
ちょうどそのとき。通りの奥から、小さな子どもが走ってきて、昨日と同じように小銅貨を差し出した。
チトは、巻き終えたばかりのジャイロを手渡した。
「ありがと」
子どもはそれだけ言って、また走り去っていった。
その背中を見送りながら、チトはぽつりとこぼす。
「……そのうち、灯した火の行き先を決めたい。どこか、まだ分からないけど……“火が必要とされてる場所”がある気がする」
カッツは笑った。
「ようやく、お前の“旅”が始まるんだな」
火は、細く灯り続けていた。名前はまだない。けれど──この火はもう、誰かの手に渡った火だった。
それはもう、消せない。




