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3章: 第5話 「消せない火」

昼の夜市は、影の方が濃い。陽光の下であっても、誰がどこで何を売るかは曖昧で、人と火と物音だけが、密集した建物の隙間から漂ってくる。


その迷路を、今日もふたりは歩いていた。背には鍋と布。手には、焼き前のナン生地入りカゴ。


 


「カッツ」


「ん?」


「……この火、いつまで灯せると思う?」


「材料の話か? 気力の話か?」


「……どっちも」


 


鍋の底にこびりついた焦げを落としながら、チトは目を伏せた。


カッツは少しだけ笑って、空を見上げた。


「火ってのはさ、理由があれば、意外と消えないもんだよ。逆に、“何のために焼いてるか”が分からなくなったら……すぐに消える」


「……理由が、あるうちは?」


「灯せる。たとえば──」


カッツはチトの横顔を見た。


「昨日、お前が包んで渡したジャイロ。あれが理由になった。“なんで焼いてるか”ってやつのな。……火が、誰かに届いた気がしたよ」


 


チトは、帽子のつばを深くかぶった。


けれど、その頬の線は、昨日よりもやわらかかった。


 



 


夕方、ふたりは崩れかけたアーチの下に店を広げた。とはいえ屋台はまだない。布を敷き、鍋を並べ、道端の石や板を組んで机代わりにするだけの、即席営業だった。


「焼けるな、ここ」


「風も少ないし、匂いも広がりそう」


 


ふたりは慣れた手つきで焼き始めた。鉄板の上、ナンの焦げ目がゆっくりと浮かびあがり、その上にチトが香草と鶏肉をのせて巻く。


 


「その包み方──港で最初に試したな、覚えてるか?」


「試作の頃。あのときはただ“焼けたから渡す”ってだけだった」


「でも今は?」


チトは、巻いたジャイロをひとつ手に持って言った。


「“誰が食べるか”を考えてる。食べやすさとか、持ちやすさとか、味が混ざる順番とか」


 


カッツは、その包みを見てふっと笑う。


「……じゃあ、これはもう“ただの包み”じゃねぇな。俺たちの──“ジャイロ”だ」


 


チトは、驚いたように彼を見た。


「名前、つけるの?」


「火には名前はいらねぇ。でも──“届ける形”には、名前がいる。そう思っただけさ」


 


チトはゆっくりとうなずいた。


そのとき、路地の端からあの香辛料屋の男がやってきた。


 


「また焼いてたか。……匂いで分かるようになった」


「客か?」


「悪いな。今日も知らせだ」


 


男はポケットから小さなスパイス袋を取り出し、ふたりの前に置いた。


「ただの礼だよ。……でも、それともうひとつ。あんたらの火、“無所属のままじゃ危うい”って噂が回ってる」


 


「またギルドか?」


「ギルドだけじゃない。この夜市は、“火を囲いたがるやつ”が多すぎる。理由があっても、名前がなきゃ消される。誰の火か分からないものは、守られない」


 


チトが小さく問う。


「……名前をつければ、守ってもらえるの?」


「少なくとも、“誰の火か”を明確にすることは、誰かにそれを守らせるきっかけになる。名乗るってのは、“責任と居場所を持つ”ってことさ」


 


それだけ言って、男はスパイスの香りを残して去った。


 


火を見つめながら、カッツがぽつりと言う。


「名前か……。KATZ’S GRILLって屋号はあるけど、それだけじゃ足りない気がしてきた」


 


チトはナンを巻きながら、そっと答えた。


「……私、自分の名前で灯せてる気がしない」


「でも、お前が巻いた。“誰のために焼くか”を考えて渡した。だから──火が、強くなったんだと思うよ」


 


ちょうどそのとき。通りの奥から、小さな子どもが走ってきて、昨日と同じように小銅貨を差し出した。


チトは、巻き終えたばかりのジャイロを手渡した。


「ありがと」


子どもはそれだけ言って、また走り去っていった。


 


その背中を見送りながら、チトはぽつりとこぼす。


「……そのうち、灯した火の行き先を決めたい。どこか、まだ分からないけど……“火が必要とされてる場所”がある気がする」


 


カッツは笑った。


「ようやく、お前の“旅”が始まるんだな」


 


火は、細く灯り続けていた。名前はまだない。けれど──この火はもう、誰かの手に渡った火だった。


それはもう、消せない。


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