3章: 第3話 「誰がための火」
焼けた鶏の匂いが炭火と香辛料の香りを纏い、通りの熱気に溶けた。けれど──誰も、足を止めない。
それは静かな否定だった。この街では、“知らない火”はまず疑われる。
「……今日もダメか」
カッツは、焼き上がった薄焼きパンーナン生地を蜜蝋紙に包み、ため息をついた。
チトは無言で隣に座り、帽子の影から通りを見ている。その手は、焼き網に残った焦げをこすり落としていた。
「まだ早いのよ、たぶん」
「なにが?」
「“ここの流儀”に馴染むには。この街は、“味”より“顔”を見て買うの」
火はきちんと灯っていた。味も、悪くない。なのに誰も食べない。
そんな夜が、もう3晩目だった。
チトが、ジャイロの包みをひとつ手に取った。
「……行ってくる」
「どこへ?」
「ちょっと、ね。あんたはここにいて」
そのまま、彼女は包みを持って夜市の迷路に消えていった。いつもなら無言の後ろ姿だが、今夜の背中は、どこか探るように揺れていた。
*
チトは、雑踏の中を抜けていた。人波を縫い、階段を登り、袋小路に入る。
彼女が足を止めたのは、灯りの少ない小さな広場。
その隅に、小さな布を敷いて身を縮めていた男の子を見つけた。まだ幼く、袖のない上着を着て、体は煤けていた。
チトは、何も言わず、包みを差し出した。
少年は驚いたように目を丸くしたが、やがて、受け取ってもいいのかと目で問う。
チトは、こくりと頷いた。
少年は、包みを開け、ひとくちかじった。──その瞬間、目が、ぱっと見開かれた。
口元から蒸気があがる。しばらくもぐもぐと味わったあと、少年は手で包みをぎゅっと握った。
「……お姉ちゃん、これ、どこで売ってるの?」
チトは答えなかった。ただ、背を向けてその場を離れた。
そのまま戻る途中、チトはぽつりと呟いた。
「“食べた人の顔”を見るのって、たぶん、怖かったんだ……」
*
一方その頃、屋台では──
「……火、消しておくか」
カッツは、残った包みを見下ろしていた。
ふたりで食べるには少し多い。売るには、少し足りない。
どちらにもならない“半端な火”。
チトが戻ってくる少し前。
背後から、小さな声が聞こえた。
「……ここ、だよね?」
振り返ると、さっきの少年が立っていた。包み紙を胸に抱え、小さな妹の手を引いて。
妹は疲れたような顔をしていたが、兄の目は輝いていた。
「お姉ちゃんがくれた。これ、ここで焼いてるって……!」
カッツは、驚いたように目を見開いた。そして、すぐに鉄板に手を伸ばす。
「……へい、まいど。焼きたてでいくぞ」
火が、再び灯った。
その香りに、近くの通りの誰かが足を止める。
ひとり、またひとり。
火は伝染する。特に、“誰かに渡された味”は。
遠くから焼いているカッツと、小さな列を見て、彼女は立ち止まる。
その視線は──不思議と、やさしかった。
チトが戻ってきたのは、それから少ししてからだった。
*
チトがサポートに戻り、1つ、また1つとジャイロを手渡していく。
「……火ってのはさ」
カッツが、ふと焼きながら呟く。
「うまいかどうかじゃねぇんだよな。“誰のために焼いたか”で、届くかどうかが決まる」
チトは無言で、それを聞いていた。
そして、帽子のつばを少しだけ持ち上げた。
「それ、……わかってるなら、もう少し丁寧に包んで」
「へいへい。副店長、いつもありがとう」
「誰が副店長よ」
その夜が、初めての売上だった。小銅貨が布の皿に置かれ、子どもが包みを抱えて走っていく。
それを見て、ふたりは何も言わなかった。
けれど確かに、“火が届いた夜”だった。




