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1章: 第2話 「目覚めの火種」

 


 空の色がくすんだ藍に変わり、街の灯りがぽつぽつと灯り始めたころ。

 屋根の上に乗った少女は、身動きもせず、遠くの地平線を眺めていた。

 街の喧噪は地を這うように遠く、まるでこの場所だけが切り離された別世界のようだった。


 藍色の空には、低く煙の筋がいくつも流れていた。市場で焚かれた炭の煙、家々の夕餉の湯気、遠くの工房から立ち上る油煙。

 その匂いは風に混ざって薄まり、乾いた石の匂いと一緒に鼻をくすぐる。

 屋根瓦は昼の熱をまだ残していて、手をつくとじんわりと温かい。

 少女は膝を抱え、目を細める。あの見知らぬ鉄の塊――フードトラックが、広場の外れで小さく光を反射している。

 耳を澄ませば、金属を叩く音と、低い唸り声が風に乗って届いた。


 


 その下の広場には、場違いな金属の塊――フードトラックが停まっている。

 カッツはひとり、荷台で座り込み、ボンネットを開いて唸っていた。


「……やっぱり、オルタネーター飛んでやがったか? いや、そもそも電気通ってねえのか……」


 その声を、少女は遠くで聞いていた。



 市場は昼の喧噪を引きずったまま、夕方の色に沈んでいく。

 油で揚げた豆菓子の甘い匂いと、刻んだハーブの青い香りが空気の層を作り、行き交う人の衣に染みつく。

 遠くに見える屋台からは鉄板の上で肉を叩く音。

 その合間に、油がはぜ、香辛料の煙がふっと立ち上った。

 少女はその香りに、かつて旅の途中で立ち寄った町の味を一瞬だけ思い出す。


それを食い入るように眺める昨日の男。


少女が見たこともない車輪の付いた鉄の屋台に興味を示したのは、単なる好奇心だったかもしれない。

 けれど、彼の持っていたスパイスの匂い、あの焼けた鶏肉のにおいは、彼女の中の何かを確かに揺らしていた。


しばらくの間、屋台の構造や料理人の動き、並んでいる客と何か言葉を交わした後ーー

こちらに気づいたその男が、手を振りながら近づいてきた。

知らないはずなのに、どこか懐かしい匂いを纏って。


「なあ、あんた、"チト"とか言ったっけ? 少し手伝ってくれねぇか? 俺、こっちで……なんか、食い物売ろうと思ってさ。こっちの世界でも通用するかわかんねぇけど、あんたが昨日、売れるって言ってくれたことに賭けてみようかと思ったんだ」


「……よく分からないとこに急に飛んできたのに、そんな余裕あるやつ、初めて見たわ」


 冷たく言い放ったチトだったが、なぜかその足は街の外れへと向かっていた。

 自分でも理由がわからなかった。


 


 夜。

 トラックの近くに小さな焚き火。その周囲に、薄焼きのパン、集めた見知らぬ野菜と、鶏肉が並ぶ。


「なあチト。味見してくれよ。こっちの香辛料、似てるけど微妙に俺の世界と違うからよ……バランスわかんねぇんだよ」


「……自分で食べれば?」


「ほら、他人の舌で確認しないと意味ねえっての。料理人の基本だろ?」


 ぶっきらぼうな口調とは裏腹に、その手つきは丁寧だった。

 チトはしぶしぶ一口食べて、驚いたように目を見開く。


「……悪くない。むしろ、これ……ちゃんと味になってる」


「だろ? ギリシャの“ジャイロ”って料理に近いかもって思ってたが、こりゃ“ケバブサンド”寄りか?」


「ジャイロ? ケバブ?」


「……気にすんな。忘れてくれ」


 チトはもう一口かじり、噛みしめるごとに香辛料の層が広がっていくのを感じた。

 酸味の奥に、焙った種のほろ苦さ。油が舌にまとわりつき、火で焦がした香りが鼻に抜ける。

 焚き火の火は、肉を焼く音と一緒に小さく呼吸しているようだった。


 カッツが時折トングで肉を返すたび、火はその動きに応えるように揺れた。


 ――火は生きている。

 そんな感覚が、一瞬だけ胸をよぎった。


 ふっと、チトの口元が緩んだ。気がつけば、あたりの空気はやけに穏やかだった。


 


 翌朝。

 トラックの横で、粗末な毛布に包まれながら寒さで目を覚ます。

 朝靄の中、こちらに近づいてくる人影に目を凝らすとーーチトだった。

霧のように現れたチトが、カッツに手を突き出す。


「ギルドに行くよ。どうせあんたひとりじゃここの制度すらわかってないでしょ。当面の間……食い扶持になる仕事なんかが見つかるかもしれないし」


「……へへ、助かるわ。……じゃあ、あんたは相棒ってことでいいか?」


「相棒……なんかじゃない。とりあえず……お試し」


 その横顔は、どこか気恥ずかしそうだった。


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