12章: 第11話 「旅した味、届ける火」
市場の喧騒から少し離れた場所で、ようやく風の流れが読めるようになった。
焼けた石壁の熱を逃がすように、海側からの乾いた風がゆっくりと抜けていく。砂漠の風に似ているのに、どこか違う。塩の気配と、湿った土の匂いが、もう完全に混じり始めていた。
粉を買わせてもらった店の主人は、ノマド号を見てしばらく黙っていたが、やがて「火を使うならあっちだ」と、広場脇の空き地を顎で示した。
市場の中心から少し外れた場所だった。
荷車を止める旅人が使うような簡素なスペースで、地面は踏み固められている。すぐ隣には水瓶が並び、その向こうでは、魚を焼く煙がゆっくりと空へ流れていた。
その場所へ向かう途中、ちょうど隣にあった肉屋で、カッツは足を止める。
吊るされた丸鶏。
羽はすでに処理されているが、鮮度だけは一目で分かった。肉に張りがあり、脂が白く濁っていない。
店主は、日に焼けた腕を組みながらこちらを見る。
「どう調理するんだ?」
短い問いだった。
カッツは、身振りを交えながら説明する。
回して焼くこと。
薄く削ぐこと。
片方は細かく刻み、香辛料と一緒に鉄板で炒めること。
最初、店主は怪訝そうな顔をしていた。
だが途中から、その目が少しずつ変わる。
料理人同士が、“想像”で会話している顔だった。
「……なるほどな」
小さく呟いたあと、男は壁際に立てかけてあった大ぶりの包丁を手に取る。
次の瞬間。
だんっ、と乾いた音が響いた。
迷いのない一撃だった。
骨ごと断たれた鶏が、鮮やかな手際で部位ごとに分けられていく。胸、腿、脂の乗る部分、焼き向きの部位。
刃が落ちるたび、肉と骨の鈍い音が、小気味よく空気に弾けた。
切り分けられた肉は、軽い金属でできた桶のような容器へ放り込まれていく。外気の熱とは逆に、その容器だけは妙に冷えていた。
氷ではない。
だが、内側に熱を溜め込まない素材なのだろう。
「ほらよ」
店主が差し出す。
カッツは中身を確認し、小さく頷いた。
「助かる」
それだけ言って、二人は広場脇へ戻る。
ノマド号を止める。
荷を下ろす。
炭を組む。
火を起こす。
その一連の動きは、もはや言葉がいらなかった。
久しぶりだった。
ずっと隠してきた火を、“人前で使える”というだけで、胸の奥に熱が戻ってくる。
炭が赤く染まり始める。
ぱち、と小さな音が鳴るたび、香ばしい煙が風に乗って広場へ流れていった。
チトは、カッツの少し後ろに立っていた。
作業台の上には、大きなボウル。
その中へ、半々の粉が入れられている。
白と黄が混じった、不思議な色だった。
カッツは指先で粉を崩しながら、水差しへ目を向ける。
「チト、ぬるま湯を少しずつ」
「……うん」
小さく返事をし、言われた通りに注いでいく。
一気には入れない。
ほんの少し。
粉が水を吸い、ぽろぽろと塊になり始める。
さらに少し。
指先で押され、まとめられ、また水を含む。
散らばっていたものが、少しずつひとつになっていく。
その様子を見ていると、なぜか胸の奥が静かになっていく気がした。
砂漠へ入ってから抱えていた不安も、ばらばらになった記憶も、全部こうしてまとめ直せるんじゃないかと、一瞬だけ思ってしまう。
夕陽が差し込む。
赤みを帯びた光が、カッツの横顔を照らしていた。
真剣な目だった。
けれど、どこか安心している顔でもある。
火の前に立つ時だけ、この人は少し呼吸が深くなる。
その横顔を見ていると、胸の奥がじんわりと温かくなった。
どうしてなのかは、自分でも分からない。
「……よし、生地はこんなもんだな」
カッツが、生地を軽く叩く。
表面はなめらかで、ほんの少しだけ黄色みが混じっていた。
「火もちょうどいい」
炭の具合を見ながら、小さく頷く。
その横では、先ほど切り分けてもらった肉へ香辛料が擦り込まれていく。
にんにくを強めに。
塩も少し強く。
香草は、香りの輪郭だけ残す程度。
砂漠を越えてきた土地の空気に合わせるように、配合が少しずつ変わっていく。
味が、旅をしていた。
カッツは、そのうち脂の多い部位を長い鉄串へ刺していく。
重ねる。
押し込む。
少し角度を変えながら、塊にしていく。
その姿を見ながら、チトはふと別の肉へ目を向けた。
もう一種類の肉は、鉄板の上へ置かれている。
じゅっ、と音が鳴る。
細かく刻まれたそれを、カッツはヘラでさらに潰しながら炒め始めた。
最初は塊だった肉が、どんどん細かく砕かれていく。
脂が広がる。
香辛料が混ざる。
鉄板の熱で、水分が飛び、香ばしい匂いだけが濃くなっていく。
「……これ、そんなにして平気なの?」
チトは思わず尋ねる。
不安と、純粋な疑問が半分ずつ混ざった声だった。
カッツは鉄板から目を離さないまま、小さく笑う。
「……大丈夫だ。まあ見てろ」
その声と同時に、スピットへ刺された肉から脂が落ちた。
じゅっ、と炭火が鳴く。
白い煙が、一気に立ち上る。
その隣では、細かく砕かれた肉も負けじと音を立てていた。
香辛料。
脂。
炭火。
焼けた肉。
全部が混ざった匂いが、広場の空気を殴るように広がっていく。
通り過ぎていた旅人が、ひとり、またひとりと足を止めた。
まだ料理は完成していない。
それなのに、もう“始まって”いた。
*
炭火の熱が、少しずつ安定してきていた。
赤く熾った炭の上で、脂が落ちるたびに煙が立ち上がる。その煙は、砂漠の乾いた匂いとはもう違っていた。
香辛料。
肉の脂。
焼けた粉。
そして、青い香草。
市場の喧騒に混じって、その匂いだけがゆっくりと広場へ流れていく。
カッツは、生地を丸めながら、手のひらで軽く押し広げていた。
だが、形が少し違う。
いつものフラットブレッドより、一回り小さい。
厚みもわずかに薄い。
チトはその違いに気づき、少しだけ首を傾げた。
「……いつものより、小さいんだね」
焼かれていく生地からは、とうもろこし混じり特有の香ばしさが立ち上っている。
小麦だけの時より、もっと乾いた匂いだった。
けれど、それが妙にこの土地の空気に馴染んでいた。
「……香ばしくて、いい匂い」
そう言うと、カッツは焼き加減を確かめながら小さく笑った。
「そうだな」
短く返す。
それから、生地を裏返しながら続けた。
「ちょっと試作がもうできるから、待っててくれ」
炭火の上で、生地の表面がぷくりと膨らむ。
焦げ目がつく。
黄色みを帯びた生地は、焼かれることでさらに香りを強くしていた。
「それに――」
カッツが、ふと顔を上げる。
「“お客さん”も、そろそろ来そうだ」
その視線の先では、さっきから何人かの旅人が足を緩め始めていた。
煙に引かれている。
まだ完成していないのに、もう匂いだけで足が止まっている。
カッツは、焼き上がった生地を木皿へ置いた。
その上に、鉄板で細かく刻みながら焼いた肉を乗せる。
じゅう、とまだ音を立てている。
脂をまとった肉の熱気が、生地へ染みていく。
そこへ、刻んだ青い香草。
さらに、小さな緑の果実を半分に割り、上から強く絞る。
透明な汁が、肉の上へ落ちた。
途端に、匂いが変わる。
重かった脂の香りに、鋭く爽やかな酸味が走る。
熱気の中へ、風が通ったみたいだった。
カッツは、それをチトの前へ差し出す。
「巻きじゃないけど」
そう言って、皿を軽く押し出す。
「こっちの流儀に合わせてみた。いってみてくれ」
チトは皿を受け取る。
形は、いつものシャワルマとは違っていた。
こちらの屋台で見た“タコ”と呼ばれる料理に近い。
小さめの平たい生地へ具を乗せ、巻き切らず、半分開いたまま持つ。
摘むようにして食べる形だ。
ただ、完全に同じではない。
こちらのものより少し大きい。
けれど、いつものシャワルマよりは小さい。
ちょうど、中間。
異国の料理を、そのまま真似したわけじゃない。
カッツたちなりに、この土地へ寄せた形だった。
「これを二つで一皿にして出そうと思う」
カッツが言う。
その目は、もう料理人のものだった。
チトは小さく頷き、ひとつを持ち上げる。
生地は、表面がぱりっとしている。
けれど折り曲げると、ちゃんとしなる。
口へ運ぶ。
最初に来るのは、炭火の香ばしさだった。
焼けた粉の匂い。
肉の脂。
そこへ、とうもろこし特有の甘みが追いかけてくる。
だが、重くならない。
噛んだ瞬間、青い香草の香りが抜け、果実の酸味が脂を洗い流していく。
熱いのに、どこか涼しい。
砂漠を越えてきた身体へ、風が抜けるみたいだった。
「……おいしい」
ぽつりと漏れる。
それは感想というより、安心に近い声だった。
カッツは、その顔を見て少しだけ肩の力を抜く。
「なら、いけるな」
炭火が鳴る。
じゅっ、と脂が落ちるたび、香ばしい煙が夕方の空へ溶けていく。
空の色は、もう昼ではなかった。
乾いた青の奥に、薄く橙が混じり始めている。
市場を抜ける風が、青い香草の匂いを運ぶ。
その匂いは、砂漠の終わりの空気によく似合っていた。




